3 University combination investigation -Ouke Dain as an example
2005年8月1日から5日までの4泊5日間、中華人民共和国(以下中国と表記)山西省霊石県にある民居「王家大院」*1において3大学国際合同調査を実施した。中国北京理工大学、大韓民国(以下韓国と表記)東西大学、神戸芸術工科大学の3大学大学院生、教員による共同研究調査である。本稿は、プロジェクトの立案から予備調査・本調査・調査報告会・二次調査・シンポジウムの開催にいたる一連の流れとその内容を報告し、次年度活動をおこなうに当たっての参考資料とするものである。
本学では平成元年の開学以来、海外の大学との相互交流や留学生の受け入れが積極的におこなわれてきた。学長や教職員の相互訪問や学生の交流事業を続けていく中で、2000年の教員の北京理工大学・東西大学への短期派遣がきっかけとなり、3者間での有意義な交流の模索がおこなわれるようになった。折しも教育改革が叫ばれる中、本学においても大学院授業の国際化と教育の質的向上を目指した試みとして、中国・韓国・日本の3大学院間の共同研究プログラムの実現を目指そうという話が提案された。教育の国際化を意図した2国間の取り組みはこれまでにも多く紹介されているが、3国間合同の取り組み事例はそれほど多くない。本企画が提案された意図は、研究調査の立案から実施、また研究成果を3カ国で共有し、情報発信につなげていくことで大学間のアジアにおける研究の発展を促し、研究資料の蓄積を継続することにより共有資産の構築をはかろうという大きな狙いがある。さらに、3カ国間の学生・教員の交流を深めることにより、国際的な視野を身につけた人材を育てることも意図している。
本報告は2005年より実施に至ったこの企画の、計画から調査の経緯・調査報告までを順を追って報告することが目的であり、研究の成果については時期を改めて発表する予定である。
3大学間において各々大学院授業の一環として実施する旨を確認し、第1回目の合同調査地は中国国内とすることで一致した。具体的な調査地については北京理工大学に一任し、以後は3カ国の中で毎年調査地を巡回するという基本合意がなされ、一巡する3年後にまとまった成果集を作成することが確認された。このような話し合いの中で、初年となる2005年度は中国山西省にある民居「王家大院」の合同調査を実施するとの内容が北京理工大学より通達され、本学は予備調査のために4名の教員と1名の事務職員が、通訳を兼ねた北京理工大学教員と共に現地の視察をおこなった(写真1)。具体的な本調査の実施計画作成がスタートしたのが2005年4月であり、1:調査項目の決定。2:調査方法の検討。3:調査日数の検討。4:調査許可取得の方法。5:調査地へのアクセスの方法。6:宿泊施設の選定。7:研究発表の場所と方法。などについて早急に検討と確認をおこない、具体的なスケジュールの作成に取りかかっていった。
3-2 スケジュールの調整
予備調査の結果から得られた情報をもとに、山西省行政府への調査依頼、調査現地への交通手段、宿泊施設の確保、調査方法、調査項目などに対して具体的な対応と計画の立案をおこなっていくこととした。これらの具体化については3大学が協議、分担して行うことが本筋であると思われるが調整時間の短縮と効率化を目指し、本学が主導的な立場をとり調査計画や日程の立案をおこない、その内容を2大学へ提案するという方法を採用した。
調査項目については、3大学間の特性を重視しつつ、学生・教員の専門性を生かしたグループ編成をおこなうこととした。北京理工大学は文献から得られる歴史的な研究を中心とし、東西大学は画像の編集・処理・作成のノウハウを生かした研究、本学はフィールドサーベィの手法やプレゼンテーションの技術を中心とした視点から教育的な指導をおこなう方向に決定した。調査方法は国際合同調査という視点に立ち、グループの構成メンバーには必ず各大学の学生が参加することを原則とした。
3-3 集合方法
本調査に向け韓国、日本の学生・教員共に、8月1日午後5時に北京理工大学に集合した。韓国は学生・教員全員が空路を利用したが、本学学生の移動方法は概ね空路および海路が半数ずつ、教員は全員が空路の利用となった。夕方6時からの夕食会で初めて、中国・韓国・日本の学生・教員が一堂に会し、夕食を取りながら参加者の紹介とスケジュールの確認をおこなった。全体説明はすべて日本語・中国語・韓国語の順でおこなっていったが、学生同士や教員間のコミュニケーション方法には英語も加わった。夕食後はゆっくりと休む間もなく、チャーターしたバスに乗り込んで夜の10時に北京理工大学を出発した。参加人数の関係から、北京理工大学の一部数名の学生と教員は列車での移動となり、現地で合流することとした。満席のバスでの移動はほぼ全員が発対面同士であるにも関わらず、3大学のコミュニケーションの場として有効に活用され10時間、500kmを超す長距離移動にもかかわらず異文化紹介や交流の場となった(写真2)。
8月2日午前中に10時間あまりのバス移動を終え、現地のホテルに無事到着した。夜を徹しての移動であったためにホテルでの仮眠後、同日午後に全員で現地の下見と調査方法やグループ・機材の確認を行い、同3日及び4日に本格的な調査にはいった。調査に際しては一般観光客との差異化を図かり、また対外的なアピールを兼ねて、61名全員が統一のユニフォームを着用し調査をおこなった。このユニフォームは、趣旨に賛同した日本の企業からの提供していただき、本学で調査隊のシンボルマークを印刷の上、全員に無料配布したものである(写真3)(写真4)。
調査の分担にあたっては、大きくは建築実測調査班、家具実測調査班、装飾文様調査班、CG作成班の4班に分かれ、この4班がさらに4~5名程度のチームに分かれ、合計10前後のチームを構成した。当初は暫定的に、各チームに日中韓3大学の学生が必ず含まれるように班分けを行ったが、8月2日の下見を終えた段階で各自の研究上の関心に従い班の移動を認めるなかで、建築実測班は主として神戸芸術工科大学のメンバーが、CG作成は主として東西大学のメンバーが担当することとなった。一方で、家具実測班と装飾文様調査班については、3大学の混成チームが有効に機能した。なおこれらのチームは、適宜合併・分離しながら調査を進めた。調査に際し必要と思われる機材のリストアップをおこない本学で一括準備した(表1)。
4-2 調査の方法など
上記の4班は、調査対象がそれぞれ大きく異なるため、調査の方法も大きく異なることになった。以下にその概要を記す。
4-2-1 建築実測調査班
神戸芸術工科大学の15名が中心となり、1チームあたり3~5名の小グループを7チーム程度編成し、適宜編成を変更しながら高家崖全域の建築平面実測調査を行った(写真5)。実測にあたっては、B3版のセクションペーパーを記録用紙として用い、赤外線距離測定器やコンベックスなどを用いて計測した。また事前調査において有用であることがわかった計測用治具も事前に制作をおこない使用した(図1)。なお、野帳は1/100の図面を作成することを前提に作成した。さらに、必要に応じて補助的に室内外の写真撮影も行った。
このうちの1チームで高家崖及び紅門堡の全域にわたる小祠の調査も行い、全部で29カ所31件ある小祠すべてについて所在地の確認と正面からの画像記録などを行った。
4-2-2 家具実測調査班
家具の調査においては、3大学のメンバー7名から成るチームを編成し、高家崖に存在する椅子に的を絞り、(9月の2次調査と合わせて)全20点の調査を行った。調査方法としては、椅子の実測寸法の記録、三面図の作成、正面・側面・背面3カ所の定位置からの画像記録、座・背もたれ部の構造・仕口確認、さらに目視による樹種の確認を行った。(写真6)(写真7)
4-2-3 装飾文様調査班
装飾文様の調査においては、3大学の14名からなるチームで高家崖の凝瑞居を中心とした彫刻の吉祥紋様の調査を行い、建築の窓枠や軒下の木部・門前の枕石・壁面のレリーフ・柱の礎石などに刻まれた彫刻を対象に、主として画像よる記録を行った。(写真8)また、別に北京理工大学を中心とする5名から成るチームが影壁に的を絞って同様の吉祥紋様の調査を行った。
4-2-4 CG作成班
CG作成班においては、東西大学のメンバー6名が中心となって3~4名程度からなるチームを3~4チーム構成して、高家崖の建築群を主としてデジタルカメラ及びビデオカメラにより記録した。(写真9)
4-3 現地における調査の中間報告会
調査2日目にあたる8月3日の夜(22:30~24:30)、互いの班の作業内容を理解しあうことを目的に、現地のホテルにおいて作業の中間報告会を行った。(写真10)
建築実測調査班は、実測し終えた範囲の野帳を貼り合わせたものを提示しつつ作業の概要を説明した。次いで家具実測調査班及び装飾文様調査班も、それぞれの作業風景を紹介した。また、CG作成班は早速この日撮影したデータをもとに3D画像を立ち上げて披露した。全体的に充実した発表が続いたため、予定の時間を大幅に超過し、終了時刻は深夜に及んだ。また、本調査に対して山西新聞社より取材を受け、翌日の山西新聞に掲載された。(写真11)
二次調査については、9月2日から6日まで本学教員のみで実施した。6名の教員が各々専門の立場から参加し、本調査の結果をふまえた補足調査をおこなうことと、本調査で実施できなかった文献資料の収集が主目的である。このような現地においておこなった家具調査、模様調査と北京に戻っての書籍収集を終え、レポートとしてまとめた内容を以下に掲載する。
5-1 王家大院「高家崖」における椅子
中国では漢時代に椅子座が採用されはじめ、宋代には一般化しつつあった。そして、中国の古典家具は明・清朝時代(明1368~1644、清1644~1911)に最盛期を迎え、一般的にこの期の15世紀から17世紀の家具が「明式家具」、18世紀から清代末期の家具が「清式家具」と称されている。
明代中期以降に生産された明式家具は、優美で流れるような曲線が特徴である。それ以前の家具は軟木を素材とし漆が施されていたが、南方との交易が盛んになるにつれ、紫檀、黒檀、花梨などの硬木が用材として使われた。硬木を使用し素材自体の美しさとその強度を生かしたことが、均整のとれたシンプルなプロポーションを実現する大きな要因になったと考えられている。また、金物を使わない木工の組木技術による構造も明式家具の完成度の高さを示している。
清時代になると国際貿易が盛んになり社会経済が成熟するにつれ、家具は社会的地位の象徴として装飾性や精巧さが重視され、象嵌・飾り彫刻など工芸技術の粋が尽くされた。明式家具の技術は踏襲しながらも広州を中心に西洋の影響も見られ、サイズも大きくなりオーナメントも多様に組み合わされ華やかな清式家具の様式が確立した。一方、蘇州などを例に明式家具も生産され続けていた。清の嘉慶16年(1811)に完成した王家大院「高家崖」で当初から使用されていた椅子類は残されておらず、現在、保存展示されている椅子類は、博物館としての開館時に市井から収集されたものであるらしい。明清両様式の家具を備えているが、王家大院にふさわしく念入りに製作された上質のものである。意匠は全般的に精緻ではあるが、清式の家具でも華美と言うよりは抑えが効いた印象である。上級でありながら、象徴的な意味ばかりでなく現実の日常生活での実用性を前提にした意図が伺える。明式の家具は、17,18世紀の英国を中心にヨーロッパで「シノワズリー」ブームとして注目され、20世紀には北欧の家具に影響を与えたことが有名である。図面例として掲げた椅子は、典型的な明式の「南官帽椅」と称される椅子で、トーマス・チッペンデール(1718~79 直線的なイメージを流行させた中国風椅子)やトーマス・シェラトン(1751~1806 機能的で簡潔な構造の方形の背もたれの椅子)の規範となったスタイルである。また、「圏椅」と称される椅子は、笠木から肘掛けが連なる馬蹄形の曲線が特徴的なスタイルで、ハンス・J・ウェグナーに大きな影響を与えたことで有名である。
日本との関係においても、開港期の洋家具製作では構造や塗装の技術面で大きな影響を明清家具から受けていると考えられるが詳細は不明である。今後の研究のためにも今回の実測図面などの詳細資料が整うことが期待されている。特に、生活が営まれていた当時の各部屋の使用目的と家具配置の関係を明らかにする必要性が残されている。
5-2 王家大院の家具と「ホフマンボール」
中国の家具(特に明式)は、世界中のデザイナーに多大な影響を与えてきたが、その理由として現代に通じるシンプルさや優れたプロポーションと同時に構造を意匠に取り込んだ合理的な造形があげられる。中国の家具において、框材、幕板、椅子の脚、貫といった主構造となる部材は、強度的に限界まで細くしたものが多い。その背景として、明代以降に、インドシナといった国から紫檀、黒檀、花梨など唐木が入ってきたことがある。これらの南洋材は比重が重く強度があるため、いろいろな細工を施すことが可能であった。この特性を生かして接合部分の精緻な「木組み」が発達し、細い部材でも耐性を持ち合わせることとなった。また、唐木が素材として高価だった事も、スリムなデザインを加速させたと推測できる。しかし、部材の断面形状によっては、「木組み」の技法を駆使しても十分な剛性を得られないこともある。そのような場合、接合部に支え框や支え板(隅木)(図2)をさらに組み込むことで構造上の問題を解決しようとしている。その支え框や支え板(隅木)には、様々な刳り加工が施され、単なる補強材ではなく、それぞれの家具の意匠的特徴を決定する大きな要素となっている。
中国の家具について欧米で最初に刊行された専門書は、フランス人ロシュによる『中国家具』(1922年)で、これ以後「明式家具」の国際化が始まり、「リ・デザイン」の対象になる。ところが、それより前の20世紀初頭のオーストリアでヨーゼフ・ホフマン*2が中国の家具における支え框や支え板(隅木)と機能的また意匠的に全く同じ要素の「ホフマンボール」を用いた家具を発表している。(写真12)(写真13)。ホフマンが、中国の家具から影響を受けたのかどうか確認できる資料は、今のところ見つからない。ただ、ホフマンがモダンデザインの先駆者であることに変わりはなく、装飾そのものは時代精神と呼応して変化していくものでスタイルは様々であるが、形態を装飾化する行為や造形における装飾的な手法において、時代や洋の東西を越えて通じるものが存在する例のひとつとしてあげられる。
5-3 王家大院の文様
一次調査隊に遅れること一月あまり、二次調査隊として9月上旬に王家大院に向かう。私の役割は一次隊の補足調査で、なかでも吉祥文様をテーマにした松本・玉川両チームの写真資料を充実させることにある。一次調査で収集され個別に分類された様々な吉祥文様が、建物のどの位置にあるかなど、少し引いた視点で撮影するのが役目である。
実際の王家大院は、吉祥文様に埋め尽くされているといっても過言ではない。広大な空間のいたるところに、手の込んだ吉祥文様があしらわれている。同時に、整然と設計され配列された建物の圧倒する質量のなかに、儒教的な規律からくるのであろうか、凛とした秩序感が漂う。人々の心の平安を記憶し宿す王家大院。ここでは、裕福な大家族と使用人のこどもたちまでもが、秩序と吉祥に囲まれ、立場に応じ分相応に「幸」や「福」を享受できたのではないか。
王家大院はまさに桃源郷であり、城壁内部の中国の人々の活き活きとした暮らしぶりが目にみえるようだ。
本プロジェクトにおける成果を学外へ向けて公開・発信し、今後の国際共同研究における課題を確認することを意図して、2005年11月16日(水)に神戸芸術工科大学においてシンポジウムを開催した。
開催に先立つ同15日(火)の午後、王家大院調査に参加した、中国・北京理工大学から張乃仁教授・董紅羽講師・姚健講師、韓国・東西大学から金鍾琪教授・姜尚玄講師が出席され、翌日のシンポジウムの打ち合わせを行った。
シンポジウムは2部構成とし、第1部で現地調査に関する研究成果の発表会を行い、第2部では今回の3大学共同プロジェクトの反省点や今後の展開について話し合う討論会を行った。会場となった本学1号棟1225教室には、北京理工大学及び東西大学からの招待客5名のほか、本学の教員、学生、さらに一般参加の方々も含めて合計40名程度の参加がみられた。
[第1部・研究発表会](14:00~15:10)
本学の土肥博至学長による歓迎の挨拶に引き続き、第1部の研究発表会が行われ、建築実測班、CG作成班、装飾文様調査班の各班から調査野成果が発表された。詳細は、以下の通りである。
1)「王家大院の建築実測調査」神戸芸術工科大学大学院修士課程 田村裕一郎
王家大院(高家崖)における建築実測の手順と、調査の範囲や建築空間の特徴などについての報告が行われた。
2)「王家大院圖案考」北京理工大学講師 董紅羽
王家大院に用いられている吉祥文様を「福」「禄」「寿」「喜」「財」の分類ごとに整理・紹介し、あわせて背景となる吉祥文様の歴史についても報告が行われた。
3)「王家大院のデジタル化」東西大学講師 姜尚玄
王家大院の建築をデジタルデータとして記録する手順と、王家大院の一部をCG化した成果の紹介が行われ、あわせて建築データのデジタル化に関する今後の研究テーマの可能性について報告が行われた。
なお、司会・進行は、神戸芸術工科大学の山之内が担当した。
[第2部・討論会](15:20~17:00)
第2部の討論会は、北京理工大学から張乃仁教授・董紅羽講師・姚健講師、東西大学から金鍾琪教授・姜尚玄講師、本学からは齊木崇人教授・松本美保子教授以下、本プロジェクトに参加した教員、さらに九州産業大学の網本義弘教授とプロジェクトに参加した本学大学院生らが加わり、座談会形式で開催した。なお、コーディネーター・進行は、本学の大田尚作教授が担当した。
冒頭の齊木教授による趣旨説明に引き続き、3大学の国際共同研究の意義と課題について話し合った。本プロジェクトの意義としては、3大学が互いに得意分野を生かして協力し、情報を共有しあう関係が構築できたことにより、アジアンデザイン情報の発信源として役割を担う期待がふくらんだこと。教育面において、学生間の国際交流の促進により、将来的にアジアを股にかけて国際的に活躍する人材が育成されることが期待できること、などがあげられた。一方、今後の課題として、言語の異なる3カ国の間で全体のコミュニケーションの質をより高めていく工夫の必要性なども指摘された。また調査に参加した学生たちからは、調査対象地について、歴史的背景や調査の内容についての予備知識が足りなかったため、戸惑いが大きかったことなどが指摘された。
次いで、今後の展望について議論が及んだが、ここでは、来年度以降も3大学共同のプロジェクトを継続し、数年後を目標に日・中・韓の3ヶ国語に翻訳した成果集をまとめること。本プロジェクトを一つの調査に終わらせずに継続していくことが、アジアンデザイン研究の情報発信基地となるために重要であること。プロジェクトをきっかけに、学生自身が研究テーマを見つけ、引き続き博士論文へ展開させることが期待できるような場にしていくこと、などが目標として確認された。
最後に、張教授および松本教授の挨拶をもって、討論会を締めくくった。
なお、第2部終了後は大学院棟に会場を移して懇親会を開き、北京理工大学及び東西大学のスタッフと、本プロジェクトに参加した本学の教員・大学院生らが親交を深めた。
大学院教育の国際化の在り方を模索するなかで実行に移された本企画も、予備調査・本調査・調査報告会・二次調査・日中韓国際共同シンポジウムの開催と、一年足らずの間に多くの行事を消化してきた。すべての経験が始めてのことであり、特に大学間の日程調整や中国山西省行政府への調査許可申請に際しては、教育カリキュラムや習慣・風習の違いから予想以上の時間がかかった。担当者として最も気をつけた点は、学生の安全確保である。北京理工大学を現地集合地点・現地解散地点としたことにより、学生達の移動時のトラブル発生を最も心配したが、全員定刻前には到着し大きなトラブルはなかった。これは事前のミーティングを頻繁に実施したことと、大学院生達が数名程度のグループ移動をとりトラブルリスクを避けたことによると推測される。また現地における支払い業務やホテル部屋割り作業など、多くの雑務に際しては本学から担当職員を同行させたことも、各種作業がスムースに進んだ大きな理由であった。本調査は炎天下での過酷な作業が続いたが、初日午後より本学学長および秘書が応援に駆けつけられ、調査本部において指揮を執られたことも学生・教職員の士気を高めるのに大いに役立った(写真14)。
今回の大学院国際共同研究の実施に至るまでに5年の歳月が流れている。当初から、一般的におこなわれている2国間の共同研究ではなく、あくまでも3国の国際共同研究にこだわりその実現を目指していったことで、言葉の壁や3倍かかる調整時間などの障害も少なからず生じたが、計画が実行に移されていった時の喜びもこれまでになく大きいものであった。最後にこの報告書が、次年度の韓国における継続調査のための参考資料となれば幸甚である。
注・引用文献
*1― | 「王家大院」は、山西省霊石県静昇村の北12kmに位置する黄土の丘に建てられた大邸宅である。山西省の省都・太原からは南へ150km余り離れている。大院は南向きで、小高い丘にあるため視野が広い。史料に記載されたところによれば、元の皇慶年間(1312-1313)、王実(字は誠斎)という若者が、溝営村から静昇に移って定住した。王実は農業を営みながら、副業として豆腐売りしていたが、その子孫は農業から商業へ、商人から役人へとだんだんと出世していく。地位、名誉、財産を手にした王家の人々は、大掛かりな工事に取り掛かり、「華夏第一宅(中国一の屋敷)」と呼ばれる王家大院を築いた。 |
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*2― | ヨーゼフ・ホフマン:1870-1956 デザイナー集団として知られる「ウィーン工房」を主宰し、モダンデザインの先駆者として活躍した建築家であり、家具デザイナーでもある。ホフマンがデザインした家具の典型的な特徴のひとつに「ホフマンボール」がある。それは家具の入り隅部分にねじで留められた木製の球を指し、接合部の剛性を高めるための補強材であるとともに、意匠的な要素も多分に含んでいる。 |
島崎信「明式家具研究」(『椅子の研究3』ワールドフォトプレス 2003)
村松伸「明式家具の流転」(『椅子の研究3』ワールドフォトプレス 2003)
越後島研一「ヨーゼフ・ホフマンと近代様式」(『ホフマンとウィーン工房』豊田市美術館 1996)