Design Noir the scenarios of anxiety and love; An interview with Prof. Anthony Dunne:Designing Interaction; Perspectives Conceptual Products
本報告は、「デザインは時代の新しい技術・環境・社会生活にどのような影響を与えていくことができるのか」(2006紀要所収)の続編である。
アンソニー・ダン(RCA/王立芸術大学院大学教授、デザインインタラクション学科長)氏へのインタビューおよびその後のディスカッション(2006年6月RCA,デザインインタラクション学科(*1) 、およびメールでのやり取り、および2008年6月東京・秋葉原)をまとめた。
ダン教授は「インタラクションデザイン」というジャンルや「インタラクションデザイナー」という職能に価値を置かず、批評的なシナリオやプログラムに基づいてつくられた「プロダクト」を媒介として引き起こされる「議論」や「思考」に注目し、従来からのデザインが持っている役割を超えて、人間の根源にある感情や思想などに言及しようとする。その戦略は、予定調和的なデザイン、すなわち合理性や市場性では扱うことのできない大きな社会や政治、あるいは環境問題などをも取り扱うことも可能であるとする。
ダン教授が活動の拠点とするRCAおよびフィオナ・レイビイ氏とのユニット「ダン・アンド・レイビイ」によるさまざまなアクティビティ(展覧会や展示物)の具体的なシナリオや動機を伺うことで、デザインが扱うべき「インタラクション」、すなわちデザインする対象物は「モノ」だけではなく、それを触媒として始まるさまざまな思考やアクションについてのシナリオ(あるいは戦略)こそが重要である、ということを強く感じた。
本インタビューは、本学2007年共同研究「デザイン教育および現代アート教育に関する調査研究」で、調査研究の一環としてRCA教授とのさまざまな意見交換を行ってきたことのエッセンスである。ダン教授の、わかりやすい話し言葉で語られた思考や活動は、先端的なデザイン教育、現代アート教育を進める同大学の教育活動のなかでも、さらに新しい局面を切り開く教育プログラムやジャンルが示されている。
…インタビュア:小山明(教授、神戸芸術工科大学デザイン教育研究センター)、鈴木明(教授、神戸芸術工科大学大学院)
それはなかなか難しい質問ですね…。
たとえば、インタラクションというジャンルを、アートの領域として考えてみると、さまざまな分野があります。メディアアートやデジタルアートなどでしょうが、ギャラリーでよく展覧会としてインスタレーションされるようなものですが、私が関心を持っているインタラクションの行為や出来事は、つぎの2点となります。
ひとつは、インタラクションがどのようにして日常生活に組み込まれているのか、ということ。それはギャラリーのような特殊な場所においてのみ発生する出来事を考えているのではありません。それは単にテクノロジーを活用するというだけではなくて、テクノロジーがどのようにして、私たちの日々の生活に取り込まれているか、ということです。その取り込み(アプリケーション)は、興味深いときもあるけれども、ほとんどの場合は退屈なものでしかないように思われます。
もうひとつは、テクノロジーが暗に示唆(インプリケーション)しているものの研究。私がもっとも興味深く研究を行っていることです。それは「社会的な暗示」もしくは「倫理的な暗示」といってもよいかも知れないし、「文化的な暗示」と言えるかもしれません。私たちは、インタラクションデザインを、議論を容易にする媒体であってほしいと考えています。
ところで私は、自分のことを「インタラクションデザイナー」と名乗ったことは、一度もありませんよ。その言葉は、狭義でありすぎるような気がします。たしかに、すべての電化製品が、インタラクションデザインのひとつの成果であることは間違いありませんが…。
+++インタラクションデザインのジャンルを、広く考えないといけない。
その通り。私は、身の回りにあるモノに対して、テクノロジーがどんな影響を与えているのか、もっと研究を進めていきたいと思っています。デザインがインタラクションの手段としてどのように使われているのかを、です。
ところで、私が一番関心を持っているのは、デザインとアートの相違点です。デザインは、消費者や経済的活動を考慮に入れることができます。「流通」「卸し」「アウトレット」などといった一連のシステムですね。デザインについて話すとき、私たちは自動的に、このシステム全てを取り扱わなくてはならないわけですね。
それに対して、「インタラクティブアート」とは、そういったことをいっさい考えなくてよく、そこではヒトと展示されたモノの関係だけを問題にします。ですから、私はあまり関心を持てませんね。
+++ご著書の『ヘルツィアン・テイルズ』と『デザイン・ノワール』(*2) には、そのような視点がはっきりと出ていますね。
このふたつの本は異なった構成となっています。
まず、『ヘルツィアン・テイルズ』の空間的考察は、たくさんの現代の技術の中で「エレクトロマグネティックス(電磁波)」に注目しました。いわゆる「ワイヤレスネス」つまり無線を用いたプロダクトのおかげで、すべてのモノは電磁波のスペクトラムのもとで、人と人、人とモノが話をすることが出来るようになりました。そこで、人びとが電磁波をもっと意識して、容易に利用できるようになったらどのようになるか、という問いかけをしたんです。私たちは、テクノロジーを利用して、どのように世界をより住み心地のいい場所にできるかを考えなくてはいけない。電磁波をソフトで詩的に使えないかと考えているわけです。
このようなテーマは、しばしば、私たちをどれだけ楽しませるのかということに置き換わってしまう。たしかにデザインは、私たちを効率的で機能的に楽しませてくれます。でも、それは人類の、もっとも深遠なところの必要性に関わってくるものではありません。
一方『デザイン・ノワール』(*3/写真1) ではむしろ、デザイナーとして取り組むべきことは、たとえば「嫉妬」「嘘」「恐怖」など、人間のもつクオリティの全てを見つめることではないか、そして、モノ(オブジェクト)を作ることによって、人間性を成り立たせている複雑な概念を探ろうとしているのです。そういった人間的なものすべてを体現するものがデザインなのではないか、そう語っているんです。それが私たちの仕事に必要な価値だと思っています。
+++同感です。そのことを具体化するためにデザイナーは何から手をつけたらいいのでしょうか?
言いたいことは、私たちの仕事が重要で決定的なデザインだということです。目の前の問題を解決することだけでない。議論を活発化させたりできるんです。私たちは人びとに「世界がどうだとか、どうあるべきだ」とか、説教しているわけではありません。皮肉とかユーモアをも含めて、もっともっと世界を面白いものにしているんです。このようにしてデザインは、世界に変化をもたらしていくことができると考えているのです。
そこで私たちは一種の批評的なデザイン戦略をとります。多くのデザイナーは現在の世界を認め、それを補強するように働きますが、私たちの批評的デザインとは、現在のモノのあり方を問い、そしてそのモノのあり方が現在と変わったとしたら(変わっていたとしたら)、世界がどのように変わるのか、ということを問いかける訳です。私たちの仕事のほとんどはこのようなカテゴリーの中に在ると思いますが、このようなモノは企業が生産しようと思わないものですね。
+++なるほど。それでは「デザインノワール」の具体的なプロジェクトをご紹介くださいませんか?
新しいプロジェクトのひとつは「アンクシャル・プログラム」(*4) です。それは、まず出発点として「恐れ」を見つめることです。私たちがデザインにおける「恐怖」を分類すると、ふたつの対応または反応が対極に位置していることがわかりました。もちろん、一般のデザイナーたちは否定すると思いますが。
ひとつは、現実逃避をしようとすること。そして、もうひとつは、狂信的なパラノイア(妄想)。人びとはあまりに恐怖を感じるものだから、生活がとても限られたものとなってしまう。私たちがすべきことは、もちろんそれを真剣に受け止めることも大事ですが、デザインが人間を保護し、恐怖感を払拭するような存在であることも伝えなくてはならない。日々の生活のなかにおいてね。
このプログラムにおいて、さまざまな恐怖が存在していることが明らかになりますが、現在取り組んでいるプロジェクトのひとつは、電気製品には関係はないのですが、核爆弾に関するものです。
私たちは3つの「抱きキノコ雲」(写真2,3)をつくりました。ひとつはラップトップパソコンくらい、テディベアくらいの大きさで抱きしめられる。ふたつ目はテーブルくらいの大きさで、その上に覆い被さることができるくらいのもの。2つ目はもう少し大きく、3つ目は、人間くらいの背の高さのもの。ここまでくると、人びとは自分の抱く恐怖をなんとかして克服できるようになります。もちろん、これは実用的なものではなくて、まったく精神的で、感情的な特徴を備えたプロダクトです。
もし、あなたが精神療法士にかかるとしましょう。すると、この一番小さい「抱きキノコ雲」を処方してもらうことができます。この「抱きキノコ雲」と、1カ月生活を共にしてください、と。そして、つぎに訪れた際には、もっと大きなサイズのものを与えられることになります。
もうひとつの「恐怖」は、「アダクション(誘拐)」です。それは、テロリストや犯罪者に誘拐されるというようなことではなくて、たとえば、エイリアンに誘拐されることの不合理な恐怖を想像してみてください。現実に起こることではありませんが、それでも多くの人びとにとってこれは恐怖であることには違いない。私たちが作成した3つの家具(写真4)、それはフローリング材でつくられていますが、それを床に置くとする。それは奇妙な形をしていますから、私たちはけっして中へ入ろうとは思わない。外から見ると変な家具だけれども、中に入ることができる。でも、あなたはけっしてその中に隠れることはできない。隠れようとしても隠れることができないことを示しています。
+++これらの対象は、われわれが考えているデザインが取り扱うべき領域から大きくはみ出していますね。ところで、子どもたちのために手がけたプロジェクトがあるそうですね。
今、私たちが進めている「サイエンス・ミュージアム(The Science Museum, London)」に収める展示のプロジェクトです。その中に「ニューエネルギー・ギャラリー」というものがあります。子供たちが、エネルギーの未来について考えられるような展示です。「水素」「廃棄物」、そして「肉」に関して考えようとしています。
たとえば、水素をきっかけにして社会的・経済的な効果や役割を考えてほしいと思っているんですね。水素というと、私たちは空気を汚さない車なんかを思い浮かべることでしょう。エネルギー生産の分散化を行えば、誰もがエネルギーの生産を行うことができるはずです。望むならば、自分が必要とする以上のエネルギー生産も可能です。そして、その余剰分を販売することもできるはずです。
この展示では「ジョーンズ家」という家族の生活が示されています。ある家庭の構成員が、エネルギーの生産を始め、次第にそれが大きくなっていって、小さな企業になっていき、今では自分たちの会社のロゴまで持っているんです。
そう、これがその娘。「誕生日おめでとう。水素の生産者として、生産的で、幸福な時間を過ごしてくださいね」なんて書いてある。その脇には契約書がある。ジョン&サラ・ジョーンズ(両親)が、毎週お小遣いをあげるということ、そして、娘のルーシーは1週間に3本の水素ボンベを生産することを約束できるようになっているんです。ルーシーのためのロゴ入りの制服(写真5)もデザインしました。実際に、大手の作業着メーカーと共同制作しました。
さて、ルーシーはこのボトル(写真6)を毎週水素でいっぱいにすることになります。この科学博物館に来る子供たちに、自分の家庭でも、自分たちで水素が作れるということを知ってほしいんです。「水素をつくればお小遣いがもらえるなんて!」というふうに、経済的なインセンティブが生まれる。両親もまた、子供が労働力となることに気づくことでしょう。
ふたつ目のプロジェクトは、中国からヒントを得ています。出稼ぎに出ていた者が休暇中に、まったく周囲から孤立した故郷に帰る。食事を取り、野原で用を足す。せっかく摂取した栄養を、すべて出してしまっている。人糞はこんなに栄養に富んでいて、価値があるものです。『Cradle to Cradle』という持続性について書かれた本です。このプロジェクトはそれにヒントを得ています。
この写真では小さな女の子がトイレに行ったあと、ウンチを母親に渡している。彼女ができる最高の貢献ですから…。トイレ(写真7)もふつうのものとは異なっています。下水道設備へとは繋がっていない。あなたは、出てきたものを集めたいわけですから…。ウンチはもはや汚いものではない、重要な資源だということを教えているんです。
ランチボックス(写真8)をデザインしました。ふたつのスペースがあって、左側がランチ(LUNCH)、右側がウンチ(POO) が入るようになっています。帰りは右側がいっぱいになって家に戻る。自分の家でエネルギーを生産することができるわけですから、貴重な資源を無駄にすることなんかできないじゃないか、と。社会的・文化的発想の転換を促すわけです。
これは「ガストロボット:Gastrobots」です。肉によって動くロボットです。世界中で、異なるモデルのロボットが開発されている。実際のところ、イングランドでは庭でナメクジを集めるロボットがあります。私たちは、肉によって動くロボットがいるとしたら?、将来の世界はどうなっているのかという仮説を展開してみましょう。私たちは、人工知能(AI)のことなんかを心配していますし、肉によって動くロボットが、私たちの地球をのっとってしまうかもしれないなんて考えるかも知れません。でも、テクノロジーはそういうものじゃないんですね。私たちがデザインしたシナリオの中では、子どもたちは、箱の中にハムスターを入れて、それをエネルギーとしてテレビを見ようとしています。相棒としての動物ではなくてね…。
つぎは、血液によって動くラジオというものを考えてみましょう。血液を集め(写真9)、それを電子レンジみたいな機械にかけるとエネルギーを取り出せる、と。子供たちは、この血液がどこからやってきたものなのかを考えることになります。たとえばソニーに血液を送ると、代わりにプロダクトをタダでもらえるとか。この血液は、第三世界の子供たちのものかもしれない。生きるために血液を提供して、お金を得なくてはいけなかったのかもしれない、と…。
これは、この展示に対する両親向けの『エネルギーのための動物…エネルギー供給動物に対する感情移入を避けるために』という本(写真10)です。エネルギー源としての動物について書いてあります。エネルギー供給目的の動物の購入について、感情移入が起こることを防ぐための本です。現代の私たちの世代は、動物が「ペット」であった時代を知っているけれども、動物がエネルギーとして利用されることになる世というシナリオでは、子どもたちは、ただ動物たちは資源として看做してしまうからです。
つまり、これらのプロダクトの基盤となるアイデアは、デザインによって子供たちが別のエネルギー資源に基づいた、別の世界を想像できるということです。これはロンドンにあるデザインミュージアムの常設展示(写真11)で2005年9月から公開されています。この展示に対して、子ども、教師、両親にインタビューして、フィードバックを得ることができます。この展示をきっかけにして、彼らの意見を得ることが非常に大切なんです。
たしかに、このプロダクトのいくつかの部分は、子どもにとって理解するのが難しいかもしれない。でも、スクリーンを用いて映像を見ることもできるので、理解の手助けとなっていると思うし、他の部分は、ゲームみたいなものだから子供も容易に理解できるはずだ、と思っています。
私たちはインタラクションデザインに取り組んでいますから、インタラクティブ(相互作用のある)な企画にしたいと思っていました。インタラクションデザインは、コストが高い、メンテナンスが必要である…、といったマイナス面がありますからね。
インタラクションデザインが与える情報はとても少ないと思うかも知れませんが、私は、何かの質問に対してただ答え、それに対して単純に褒めるという子どもたちへの教え方が好きではありません。子供たちには、彼らなりのアプローチ方法で問題の解決に迫り、様々な角度から自分たちで考える力はあるというのにね。
+++あなた方が子どもたちのために作品をつくっていたということは驚きです。他にも子どものためにやったプロジェクトはございますか?
別のプロジェクトをお見せしましょうか?
「Circus of the Fantastic」ほか…ヴィクトリア・アンド・アルバートミュージアム(2002):
イングランドの田舎の小さな村々では毎夏祭りがあります。そこで子どもたちはケーキを作ったり、ゲームで遊んだりします。この企画は、ロンドンのデザイナーが10ペンスくらいの安価なゲームを作って、子供たちに遊んでもらうというもの。私たちは「Circus of the Fantastic」というプロダクトを制作しました。これはダンボールの脇と上側に穴を開け、懐中電灯で上から照らし、横の穴から覗くというもの。もうひとつはマガジンラックです。これはボタンを押すと、血液が流れてきます。
それから「Shocking Half Puppy」というトイレブラシ。長い黒髪を使った歯ブラシもつくりました。「リング」という映画をご存知ですね。有名な日本のホラー映画ですが、私たちはこの歯ブラシを「世界で最も恐ろしい日本の歯ブラシ」と呼んでいるよ(笑)。子供たちは、それらをとても気に入ってくれた。子どもたちと一緒に活動するのは本当に楽しいですね。もっともっとこういった企画を増やしていきたいと思っています。
バイオテクノロジーについての企画もあります。
まだ発展途上ですが、これは想像上のショッピングセンターです。「生」「死」「愛」についてのプロダクトを扱っているんです。ここにはさまざまなセクションがあって、診療所も入っています。「バイオバンク」というのは、あなたの脂肪や身体組織を保管しておける場所です。研究所に入っている診療所では、精神カウンセリングを行っています。
「遺伝子移植」というものをご存知ですか? あなたの遺伝子を豚に移植し、その豚自体をあなたの保険証書にするという考え方です。それをプロダクトと考えると、今度はその豚を一体どこで飼育するのかが問題になるでしょう。だって、その豚は特別貴重な豚ですから。そのような連鎖について考えていくわけです。あなたはタバコを存分に吸うことができます。なぜなら、あなたの関連した器官はすでに取り除かれているから…。けれども、その豚にはタバコの煙を吸ってほしくないわけです。あなたの肺を持っているからですね。そこで、このフィルターが煙を浄化して、豚の体内の君の肺を汚すことがないようにしている、というわけです。
実はこの家は、子供を持つ親に非常に人気があります。親は、子供にタバコの煙を吸わせたくないから…。
「Evidence Dolls」(2005)…ポンピドゥーセンターで開催した展覧会:
学生と進めている100体の人形を用いたプロジェクト。
回転金型射出成形を用いてプラスティックでつくった同じ人形ですが、大中小サイズのペニス型の引き出しがあります。まず、4人の若い女性に来てもらって、彼女たちの付き合った男性たちについて話し合ってもらい、彼らへの遺言状を書いてもらいました。その内容は遺伝子のこと、つまり二人の将来のこと、子どもについてのことです。
「Abake:アバケ」というデザイナーグループは、こんな話をして、人形に変なカーディガンの絵(写真12)を描きました。ある女性が哲学者と付き合っていた。彼は変なカーディガンを着ていたんですが、それが遺伝子的にどのような関わりを持っているのかということをです。
先ほど話した「抱きキノコ雲」については、15~20社の企業が生産をしたいと言ってきています。でも私は、マスプロダクションには全く興味がない。実際に製品化するとすれば、変えないといけないところがたくさん出てくるでしょうし…。
私は議論を行うために「使われる」デザインがしたいと考えるのです。私たちがデザインしたものを「生産」したいという企業があればもちろんそれは歓迎しますが、そのことは私たちのデザインの動機となっているものではありません。
+++さて、ここRCAのデザインインタラクション学科で、ダンさんがどのような教育をおこなっているか、お話しくださいませんか? イタリア・イブレアの「デザイン・インタラクション・インスティテュート」では「サーヴィスデザイン」が重要なジャンルだと聞きましたが。
インタラクションデザインは、インタラクティブ(相互作用のある)な活動を含んでなくてはいけない。こう言うと、インタラクションデザインはまるでコンピュータを介していなくてはいけないように聞こえるでしょう? ですけれども、私たちの教育においては学生たちがもっと深い部分での、テクノロジーがもたらす帰結について考えるようにしています。それは電子機器だけでなくテクノロジー全般についてです。
「サーヴィスデザイン」も、私が興味を持っているひとつです。英国ではサーヴィスデザインが非常に盛んに行われ、システムのデザインは、どこでもあると思いますが、サーヴィスデザインはもっと固定的、文化的で、システムデザインの中のひとつの層ではないかと考えます。
たとえば、私たちがレストランに行くとします。レストランは、サーヴィスデザインのひとつのジャンルです。私たちを迎えたり、物を渡したりするやり方が含まれます。
たとえば、かつて行ったプロジェクト「FLIRT:フラート」(1998~2000)では、いろいろなもののデザインやテレコミュニケーションなどをサービスに含めていました。学生たちは、イブレアと全く同じ手法を用いてデザインを行っていました。それは定式化されていると言っていいかも知れません。たしかに、サーヴィスデザインは、最近非常に活発に議論されているテーマです。でも、私が心配するのは、サーヴィスデザインが定式化し、ある種の虚像となってしまっているのではないか、ということです。
たとえば、警察学校の話があります。パブから出てきた酔っ払いが、ケバブの店に行きます。誰もが、毎晩そうするんですね。みんな空腹なので、喧嘩になるわけです。そこで警官がどうやってこの問題を解決したかというと、パブで注文が入る度にケバブショップに電話をして食べ物を用意させるようにしたんです。こうやって警官がシステムのデザインを行ったわけです。どうすれば、全てを穏やかに行うことができるか考えてね…。私はこの考え方が大好きです。これこそがシステムデザインだと思いますね。
こういったシステムデザインはイングランド各地で起こっています。ところが、私には「サーヴィスデザイン」が、このような社会的構成要素、技術要素、コミュニケーションスキルまでをも、うまく利用できているとは思っていないんです。だからこそ、こういったことを学生に挑戦してほしいと思っていますね。
+++最後にお伺いします。つぎの出版についての構想はありますか?
次の出版に関して、今アイデアを練っているところですが、まだ正確にはそれがどういったものになるかはわからない。テクノロジーの及ぼす影響について考察するのにデザインを用いるという基本的な構想はありますが。つまり、未来がどのように利用されていくのか、または誤って利用されているのかについて関心がありますね。
(了)
アンソニー・ダンは、RCA(英国王立芸術大学院大学、ロンドン)で、コンピュータ・リレイテッド・デザイン学科(1994~2002)の創設メンバーである。教育のほか、さまざまな電子プロダクトに関する調査研究、「コンセプチャル・プロダクト(必ずしも製品化を前提としない批評的なモデル)」による展覧会など社会的な活動を続ける。フィオナ・レイビイとユニット「ダン・アンド・レイビイ」を組む。
- *1―
- RCA, Design Interactions…http://www.interaction.rca.ac.uk/
RCAのデザイン・インタラクション学科は、CRD(コンピュータ・リレイテッド・デザイン)学科(ギリアン・クランプトン・スミス教授、学科長)ではじまったが、コンピュータにとどまらずより広く、人間活動、社会活動、情報や医療などまでも含めた先端的技術などに対応できる、インタラクション・デザインを調査研究、創造するため2006年ダン氏を学科長として開設された。学科名をインタラクション・デザイン学科としなかったのは、活動や調査研究の領域を固定的なジャンルとしないことの決意から。 - *2―
- Anthony Dunne, Hertzian Tales: Electronic Products, Aesthetic Experience, and Critical Design,rcacrd,1999(MIT press,2006)
電磁波による、目に見えないが、けっして、抽象的だったりヴァーチャルだったりしない、リアルな環境をどうやってデザインの対象とし、ひとびとの生活や観念に活かしていくかを具体的に論じた書。 - *3―
- Anthony Dunne and Fiona Raby, "Design Noir: The Secret Life of Electronic Objects", August/Birkhauser ,2001
書名の「ノワール」とは、1950年代のギャングや悪女を主役とした白黒映画からとった。いうまでもなく、デザインが合理性や利便性、あるいは快適さを至上命令として考えることからの離脱を意味している。いったん、デザインをこのような束縛から解き放って考えてみると、かずかずのデザインのタブーをもういちど考え直す機会が得られる。「死」や「愛」、あるいは「臓器移植」をデザインという柔軟な方法でとらえ直すことで、常識的な論理や議論を超えて扱うこともできる、と考える。 - *4―
- Weeds, Aliens and Other Stories (dunne and raby with Micahel Anastassiades)
ダン・アンド・レイビイはこのような観念や感情に関連したテーマをデザインの対象とするが、利用者や観客にアンケートやヒアリングを行い、そのフィードバックを作品の成果のひとつとする。これは、一般に用いられる(予定調和的な)「コンセプチャル・デザイン」とは異なって、さまざまなユーザによるリアクションを引き出すための「コンセプチャル・プロダクト」と呼ぶものである。
鈴木明『インタラクション・デザイン・ノート』pp100~13参照のこと。