The relation between story and methods of expression in manga and cinema
映画とまんがは異なるメディアであり、その表現方法ももちろん異なる。しかし一方で、物語を扱うメディアとしての共通性も見受けられる。まんがと映画の双方ともに、どのような表現方法を採用するかは、作品を制作する際に何を中心に考えるかによって決定する。まんがと映画は物語形式を前提としたメディアである。まずは物語を中心に考えられた表現方法を見ていきながら、他の要素を中心に据えた表現方法を検証し、物語に対するまんがの表現方法の様相を映画に参照点を置きながら論じていく。
表現方法の中でも映画における「編集」、まんがにおける「コマの並べ方」に焦点を絞って進めていく。コマの比率や形態などが映画におけるカメラの動き、時間経過を表現するなどまんがの映画的手法は非常に多岐に渡ることと、映画を参照点に置いた場合、比較検証の可能性から本論ではコマ単体ではなく、コマの並べ方に着目する。
「歴史的には、しかし、フィクション映画は、単一の物語形式の形態に支配される傾向があった。以下では、この支配的な形態を「古典的ハリウッド映画」と呼ぼう。この形態を「古典的」と呼ぶのは、それが長期にわたって安定し影響力をもった歴史があるからであり、それを「ハリウッド」と呼ぶのは、この形態をもっとも精巧に形作ったのがアメリカのスタジオ映画作品だと考えるからである。」*1
その中で着目していくのは「コンティニュイティ・システム」という編集方法である。
「編集が使われ始めた1900年から10年にかけて、映画の作り手たちは、物語を首尾一貫させ明朗に語るためのショットの組み立てを模索した。そうしたなかで、編集は、特定の撮影法とミザンセンの方法を支えにしながら、物語のコンティニュイティを確実なものにするために用いられるようになった。このスタイルは、今日でも世界中で物語映画の作品作りに携わる人なら誰でもよく知っていると思われるほど、強力なものである。」*2
この「コンティニュイティ・システム」は物語を語ることを中心として考えられており、観客を物語に引き込むために空間、時間を統御するための編集方法である。例えば、イマジナリーライン、180度ラインと呼ばれる撮影の軸は、空間的な認識をなめらかにするために用いられる。このラインを超えて撮影するとスクリーン上の方向性が失われ、観客は映画内の空間認識に戸惑い物語から注意が逸れてしまう。 (図1)では、Xのカメラ位置から撮影されたショットを編集で挿入すると、スクリーン上の方向性が失われ、観客の空間認識が混乱する。
他にも視線の一致、アクションの一致など物語を語るための表現方法が多く存在する。これらの表現方法自体は、物語から注意が逸れないように構築されるため、観客に意識されないように心がけられている。つまり、物語に従属した手法である。
まんがにおける映画的手法は、上記の古典的ハリウッド映画の表現方法を参照し、映画的なリアリティをまんがに持ち込んだものである。戦前、戦中に起源を持ち、手塚治虫が展開し石森章太郎が『少年のためのまんが家入門』(秋田書店、1965年)で体系化した映画的手法は、映画的と言われるまんが、物語形式をとるストーリーまんがのほとんどに採用されている。映画的手法は「静止画である絵」がコマの組み合わせによって、まるで映画のように動き、物語を記述することで映画的リアリティを成立させる。まんがのコマを映画のカメラのフレームと同一視し、コマの構図にカメラのアングルの概念を適用することや、竹内オサムが分析した「同一化技法」などの映画技法が挙げられる。これらは空間と時間を統御し、物語を読む読者に物語の内容以外の混乱を与えないために用いられる。(図2)では、コマの並びにより読者と作中人物の視線を一致させている。 まんがにおける映画的手法は、上記の古典的ハリウッド映画の表現方法を参照し、映画的なリアリティをまんがに持ち込んだものである。戦前、戦中に起源を持ち、手塚治虫が展開し石森章太郎が『少年のためのまんが家入門』(秋田書店、1965年)で体系化した映画的手法は、映画的と言われるまんが、物語形式をとるストーリーまんがのほとんどに採用されている。映画的手法は「静止画である絵」がコマの組み合わせによって、まるで映画のように動き、物語を記述することで映画的リアリティを成立させる。まんがのコマを映画のカメラのフレームと同一視し、コマの構図にカメラのアングルの概念を適用することや、竹内オサムが分析した「同一化技法」などの映画技法が挙げられる。これらは空間と時間を統御し、物語を読む読者に物語の内容以外の混乱を与えないために用いられる。(図2)では、コマの並びにより読者と作中人物の視線を一致させている。
映画的手法は現在のまんがにおいても主流となっており、浦沢直樹の作品でも確認できる。(図3)においてイマジナリーラインは決して超えることはない。単体で描かれるロボットのコマにおいて、顔の向きが一定であることに注意したい。
浦沢直樹の作品は映画的手法に忠実である(上記以外の作品でも確認できるが、近作になるほど顕著である)。物語を語るために空間と時間が統御され、サスペンスを孕んだ大きな物語にもかかわらず、読者に物語の内容以外で混乱を与えない。物語に没頭させるため、他の事へ興味が行かないように緻密にコントロールされている。コントロールされているがゆえに、物語以外の表現方法に関する「読み」は隠蔽され、浦沢直樹独特の「まんがの表現方法」は見受けられない。従って表現が物語に従属していると言える。
以上、物語を中心に考えられた映画とまんがの表現方法について見てきたが、まんがの映画的手法は、映画のコンティニュイティ・システムと同様に物語を語るために空間と時間を統御し原則として物語に従属する表現方法と言える。
表現方法は何を中心に据えるかによって決定される。つまり、従属先によって変化する。前章では物語に従属する「コンティニュイティ・システム」と「映画的手法」について触れてきた。これから、それ以外の従属先を持つ表現方法も見ていくことにする。
まず、従属先は以下のまんが構造の3要素に分類されると考える。これは他の物語形式をとるメディアにも当てはまると思われる。それぞれの要素に従属する方法と主な作品形式を記した。
a、ストーリー→映画的手法、コンティニュイティ・システム、ストーリーまんが
b、キャラクター→物理的なまんが独自の表現(間白、枠線、スピーチバルーンの 越境)、萌え系、少女まんが
c、表現方法→表現方法自体としての自律、新しい表現方法の模索、アート系まんが
aについては前述したとおりである。bのキャラクターに従属する表現方法とは、伊藤剛が『テヅカ・イズ・デッド』で「フレームの不確定性」という言葉で説明している。
(上段のマンガに対して下段のマンガは)「むしろデザイン的な、レイアウト的な発想で作られていることが想像されるからである。「萌えキャラ」であるヒロインの「顔」を紙面にどう置くかが工夫され、コマ展開の連続性をむしろ抑制することで、デザイン的な「美しさ」が優先させられていると考えられる。その意味では、ここには別の「洗練」が存在する。ここで重要なのは、「同一化技法」が、いいかえればコマ構造のレヴェルでのリアリティがさほど必要とされないことのほうなのである。」*3 (図4)
コマをフレームとして確定することは、「コンティニュイティ・システム」や「映画的手法」によって物語を中心に作品が制作される(物語が従属先)。一方、上記の通りデザイン的、レイアウト的な発想を中心とする時、コマをフレームと確定せず、紙面にもフレームを求める(キャラクターが従属先)。ここで注意したいのは、「フレームの不確定性」ということは、紙面にもフレームを確定しているわけではないということである。つまり、物語と紙面の両方に従属するという二足の草鞋を履いている。従属先がキャラクターのみの場合、それは物語形式ではない作品となってしまう。二つの従属度のバランスによって作品の性質が決定してくる。
また、bで少女まんがと挙げたが、キャラクターの絵柄を如何に見せるかという点から枠線を逸脱する萌え系に対し、キャラクターの内面を「言葉」によって表現し、その「言葉」がスピーチバルーンや枠線を超えて重層化されているという点でbに分類している。
cの表現方法について、方法の従属先が「表現方法」とはおかしな状況だが、これは表現方法自体に自律を求める場合を指している。映画では、実験的、前衛的映画がこれにあたる。方法の自律、新しい表現方法への挑戦といった非物語形式をとる。ショットの絵画的な性質や物語とは別の側面に焦点を当て、作り手の自己表現、実験の追求をすることによって実現される。まんがでは横山隆一の『NIWA』などがこれに該当すると思われる。
以上、3つの従属先について見てきた。ここで竹内オサムの映画的手法の説明を見てもらいたい。
「映画のもつ写像的自動的性格、絵画のもつ指標的一点静止的性格。そのギャップの克服を、戦後ストーリー・マンガはマンガ独自の文法を連続するコマ展開のなかで模索しつづけた。」*4
現在では物語を語る表現方法はかなり多様化し、上記で挙げた3つがそれぞれ純粋に機能することはほとんどない。必ずどこかで交わり、異種交配しながら絶えず進化している。この物語を語る方法について模索し続ける態度は、物語を中心とする「映画的手法」、「コンティニュイティ・システム」への拡張、反発などから見受けられるのではないか。bで述べたように、二つ以上の従属先を持ち、その間を行き来しながら表現方法は選択され(もしくは選択をさせられ)作品が制作されている状況は確認できた。意識的か無意識的かに関わらず、物語だけではなくキャラクターへのベクトルが物語を語る表現方法を拡張させている。
このことは、cについても同様のことが言えるのではないだろうか。つまり、物語と表現方法自体に従属先を求める表現方法である。むしろキャラクターへのベクトルよりも、この「物語と表現方法」というベクトルは、新たな物語を語る方法を模索する可能性を持っているのではないかと考えている。
「キャラクターと表現方法」に従属先を持つ作品については、本論では割愛する。あくまで「物語形式をとる」作品という前提によって進める。
整理をすると、aについては物語に従属する表現方法である。物語形式をとる作品は原則的にこれに従う。bについては、キャラクターをどう描くかという紙面のビジュアルに従属する。また、コマから紙面へ逸脱することで、物語に従属した方法と紙面のビジュアルに従属する方法の両方を含む表現方法を採用する。キャラクターと物語のどちらへ傾倒するかにより作品の表現は決定する。cについては、物語と表現方法を従属先とするはずだが、「コマから逸脱」するように物理的な兆候はない。そこで、cにおいて映画から検証していく。
物語形式をとる映画では「コンティニュイティ・システム」に原則的に従い、観客に物語の作品世界へ移入させる。そこでは、物語への移入に障害となるため表現方法は前面化しない。むしろ「コンティニュイティ・システム」は方法が前面化しないようにするシステムである。しかし、映画において物語を記述しつつも、その表現方法が前面化している作品を制作する映画監督がいる。彼らは「コンティニュイティ・システム」に対してオルタナティブな態度をとる。例えばイマジナリーライン、180度ラインを超え、観客の時間的空間的認識を歪ませる。また、アクションの一致はしているのに空間の一致を選択せず、飛躍する。実験映画との違いは、物語形式を放棄していないことである。これらの作品は物語を記述しながらも、表現方法が前面化している奇妙な状態にある。制作過程において物語と表現方法の二つのベクトルが両立している印象を受ける。具体的には小津安二郎、Alain Resnais(アラン・レネ)、Robert Bresson(ロベール・ブレッソン)などがそうである。
「小津のシーンは、360度空間を構築し、コンティニュイティ・スタイルでは重大な編集ミスと見なされかねないものをもたらしている。小津の作品では、位置関係やスクリーンの方向づけが一貫していないことがよくある。視線の一致がずれており、180度ラインの違反だけが一貫しているのだ。古典的なコンティニュイティ・スタイルでもっとも重大な罪に、ラインをまたぎながらアクションを一致させるということがあるが、小津はそれを『麦秋』でやすやすと行っている。」*5 (図6)
まんがではどうか。まんがの映画的手法は、古典的ハリウッドの映画表現方法を原則として、物語の空間と時間の統御を行う手法として認識されている。上記に挙げた小津に代表されるオルタナティブな存在は、「コマから逸脱しないで、物語と表現方法を対等に扱うまんが家」ということになる。具体的な例として、高野文子を取り上げて検証する。『棒がいっぽん』(マガジンハウス、1995年)以降の彼女の作品は、小津のようなオルタナティブとして機能していると思われる。
高野文子の作品を読む時、「大胆な構図」「コマの展開が独特」「映像的」という感想が多い。実際に読んでみると「物語の描き方」に目がいく。このような印象は、前章までで挙げた物語形式をとるまんがに対する印象とは異なる。それは、物語を語る表現方法は隠蔽されていなくてはならないのに、表現方法が前面化している点においてである。しかも前面化しているにも関わらず、物語の混乱はない。そこで小津たちとの比較をしてみる。
・空間、時間の飛躍、省略
小津は、アクションは一致しているにもかかわらず、背景の空間を意図的に一致させない場合がある。前述した360度システムで、アクションは一致しているがカメラは真逆に入り背景の空間は一致しない。またアラン・レネは『L' ANNEE DERNIERE A MARIENBAD(去年マリエンバードで)』の中でもっと如実に空間の不一致を描く。「振り向く」というアクションの途中でカットをつなぐのだが、背景の場所は全く別の場所になっている。高野文子『黄色い本 ジャック・チボーという名の友人』においても、アクションの一致と空間、時間の不一致が見受けられる。(図7)では、中段の蚊を叩こうとするコマと叩くコマでは時間が大幅に飛んでいる。(図8)では、3コマのアクションは一致しているが、1コマ目に背景の空間には左側に主人公の妄想が存在し、右側に現実が描かれ、コマの移り変わりとともに背景の属性が変容する。高野文子本人もこのコマについて、かなり緻密に構想しながら描いていた事を語っている。1コマ目のエプロンのマーク、2コマ目の暖簾(揺れている事に注意)、3コマ目に暖簾から妄想の人物が入ってくる、という視線の誘導についても考えたという。*6
また、編集という観点ではないが、以下の点についても触れておく。
・キャラクターに依存しない
小津は主要なキャストに個性的な人物を配役しない。むしろ大人しくて主張をせず、容姿も性格も「アク」がない役者が多い。『黄色い本 ジャック・チボーという名の友人』で高野の描く主人公の顔は多様に描かれている。あるコマと別のコマを見比べてみた時、まったく別人と思うほど書き分けられていない。キャラクターへの従属が低い印象を受ける。物語を語る上で、キャラクターに依存していないと言っていいだろう。
・描く物語の大きさ
観客を引き込む要素を物語だけではなく表現方法にも見出すため、「六畳二間」の物語でも十分なのである。小津も高野も大きな物語を必要としない。(図9)では、「帰宅して着替えて芋を食べた後、本を手に取る」という何の変哲もないシークエンスを見事に描いている。必殺技やアクション、複雑なトリックの解明とは別次元のカタルシスがある。もちろん物語を語りながら、である。
高野文子は映画における小津たちのように、物語を語ることのみに表現方法を従属させず、表現方法を自律させ対等に扱うことで作品内に共存させている。
「『東京物語』の空間と時間の使い方は、わざと曖昧にされているわけではないし、物語上の象徴的な機能を持っているわけでもない。むしろ、古典的映画とは異質の、空間、時間、物語の論理関係を示している。空間と時間はもはや、物語の流れを明快にするための副次的機能にとどまってはいない。~中略~小津は物語を排除しているのではなくその可能性を広げている。」*7
上記の小津への評価は、そのまま高野文子に当てはまるだろう。まんが作品内の空間と時間を、物語をなめらかに語ることだけに従属させてはいない。表現方法を前面化させることが、「映画的手法」や「コンティニュイティ・システム」と対立する相容れない態度ではなく、読者に対し新しい角度から、まんがの解釈を提唱しているという建設的な態度である。もちろん作家にそのような啓蒙意識はないかもしれないが、結果として高野文子は物語を語るまんがの語彙を拡張しているのである。いわば、映画的手法の新たな開拓者ではないだろうかと考える。
このようなまんが作品は、同じ物語を再び味わうという意味だけではなく、何度も読み返されるのである。読者側の「読み」にも変化が生まれ、物語を楽しむと同時にキャラクターに感情移入し、表現方法に心地よい違和感を感じる状況が育まれ、物語を巡る表現方法の地平が「読み」の側面からも広がってきていると言えるのではないだろうか。
- *1―
- David Bordwell、Kristin Thompson著 藤木秀朗監訳『フィルム・アート映画芸術入門』名古屋大学出版会、2007年、p86
- *2―
- David Bordwell、Kristin Thompson著 藤木秀朗監訳「同上書」名古屋大学出版会、2007年、p296
- *3―
- 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』NTT出版、2007年、p237-p239
- *4―
- 竹内オサム『マンガ表現学入門』筑摩書房、2005年、p104-p105
- *5―
- David Bordwell、Kristin Thompson著 藤木秀朗監訳「前掲書」名古屋大学出版会、2007年、p319
- *6―
- 高野文子「ユリイカ 特集高野文子」青土社、2002年、p57
- *7―
- David Bordwell、Kristin Thompson著 藤木秀朗監訳「前掲書」名古屋大学出版会、2007年、p416
参考文献
・石森章太郎『少年のためのまんが家入門』秋田書店、1965年
・Steven d. Katz『映画監督術 SHOT BY SHOT』フィルムアート社、1996年
・秋田孝宏『「コマ」から「フィルム」へ マンガとマンガ映画』NTT出版、2005年
・夏目房之介ほか『マンガの読み方』宝島社、1995年
・高野文子『棒がいっぽん』マガジンハウス、1995年
・大塚英志ほか『新現実 VOL.4』太田出版、2007年