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8 エコ・ポリシー

 パーマカルチャーをキーワードにしたエコロジー思想は、究極のところ人が生きるという問題に還元される。
 私たちが日常で使用する自然という言葉は、おおむね「人工物」の反対の意味に用いられるが、その定義は曖昧だ。都会のマンションのベランダに咲く鉢植えの花は、自然と呼べるのだろうか。何より私たちの身体は、果たして自然といいきれるだろうか。
 日本で禅の修行を積んだエコロジストのゲーリー・スナイダーは、シエラネバダ山麓にキットキットデイジーという家を建て、サスティナブルな暮らしを営んでいる。彼は、自然より野生という言葉を好み、その否定的な面を肯定的にとらえなおす。たとえば野生動物は、「飼い慣らされていない動物」ではなく「それぞれの資性に従って自然のシステムのなかで生きている動物」と定義される。また野生植物は、「栽培されていない植物」ではなく「生得の性質と調和し成長する植物」となる。文明より低くみられていた野生の価値が、俄然輝きだす。
 さらに、スナイダーによる「野性的社会」の肯定的な解釈は、以下のようになる。
 「内部から生まれた秩序が、はっきり成文化された法律ではなく、内部の同意や慣習によって維持されている社会。自らをその土地固有の、そして永久の住人とみなす、原初の文化。文明の政治的・経済的支配に抵抗する社会。経済組織が、その土地のエコ・システムと緊密な依存関係にある社会」(『野生の実践』より)
 この場合、愛着が実感できる「その土地」の範囲は、自ずと限定される。
 「宇宙船地球号」。バックミンスター・フラーにより提唱された概念だが、人間が操縦しているかのごとく錯覚しやすい言葉でもある。人は客室のほんの一部を占める乗員にすぎない。私たちには、同席するゾウやイルカたちの生存を脅かす権利はない。それどころか、少し離れた席に座る昆虫や草花を慈しみ配慮する智慧を、私たち人類は与えられているのではなかったか。
 20世紀の初頭まで、ほとんどの人は徒歩で移動し、フラーの推定では、平均的な人間の年間歩行距離は約1800㎞だった。もちろん直線ではなく限られたエリア内での移動であり、一生の間に地平線を越えて遠出することはなかったという。このあたりの距離感覚が、おそらく「自らをその土地固有の、そして永久の住人とみなす」ことができる、つまり、人と土地とが親密につながった関係を結べる限界なのではないだろうか。
 スナイダーはこうもいう。
 「野生は、中国語の『道(タオ)』、偉大な自然の(道教でいう)『道』を定義したものにきわめて近い。それは分析が難しく、型にはまることがない。自らを組織し、自ら学び、遊び心にあふれている。(中略)自由に表現し、自らを信頼し、そして自ら命じ、複雑でいて、きわめて単純」
 老子の「道」は、人為的なものを排し、無為自然の大切さを標榜する。無為自然とは、自然に任せて生きることだ。「柔弱」「謙虚」「寛容」「知足」の四徳で生きることが人の本来あるべき姿だと、道家は説く。
 「しなやかで、おおらかで、多くを求めず、天から与えられたものを受け入れ満足する」
 スナイダーの「野生的な人」の定義はこうなる。野生人のコミュニティは、得も欲もない平和な村落共同体で、老子はこれを「小国寡民」と呼んだ。
 CWの哲人ヒッピー=バリー・グッドマンやマレニーの母=ジル・ジョーダン、そして、パーマカルチャーを自家菜園で実践するデジャーデン・由香理女史。彼らに共通した野生人のスピリットこそが、エコロジストに必須の条件なのである。



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