A Study on Practical, Individual Challenges in Today's Publishing / Design Industry
現代の「出版・デザイン」の状況のさまざまな問題を、実践的な製作者の立場から検証し、作品として成立した「書籍」「イラストレーション」「絵本」等において、どのようなことが問題化しているかを研究対象とする。またそれぞれの製作の現場に固有にみられる問題が、同時に、大状況としての情報のグローバライゼーションと、いかほど不可分であるかということの検証にも注意を払いたい。そこで問題になってくるのは、コンピュータによる機械化された生産基盤の共通化と、インターネットによる情報の共有化という、テクノロジーの圧倒的な更新が、個別の作品製作にどのような影響をおよぼしているかという問題である。
IT技術の進展にともない「印刷」「出版」「デザイン」の現場は劇的な作業環境の変化にさらされてきた。デザイナー・イラストレーター・編集者などの個別の実践者は、それぞれの現場で、表現の更新の問題に取り組み、成果を生んできた。
具体的には、「活版→写植→DTP」と1970年代初頭からのこの40年間ほどの作業環境の変化は、きわめて著しいものがあった。これは現代人の一生の時間よりも、はるかに短い時間であり、「活版→写植→DTP」のすべての製作環境を体験したという製作者も少なくない。
しかしこうした技術上の劇的な変化の中で、表出してくるデザインの実質においても、そうした革新に見合うだけの変化が生じたのか、ということについて振り返ってみれば、そのような革新は明確にはあまり見いだすことができない。それは「技術」が「作品」に直結しないという問題であろうか。仮説的にしか提起しえないが、それはこういうことなのだと思われる。
すなわち「活版→写植→DTP」の変化は「機械→光学→電子」の技術変化に対応するわけだが、それは決定的に文化の内容に変革を起こしたわけではないと思える。我々のデザイン活動は、実は未だ「電子時代」のものになっているわけではなく、「機械時代」の形をなぞっているだけなのだ。一例をあげれば「文字=書体」の制度がある。ここではあくまで日本語の文字組織のシステムに限定しての言及とするが、現在、DTP技術を使ってデザインに携わる者は、コンピュータにあらかじめインストールされているフォントデータの反映としての文字=書体を使って文字組を構成している。しかし実は、それら多種類のフォントデータのもつ書体形状は、かつての金属活字を微細にアレンジ・整合したものにすぎない。溶融成型された金属から電子的情報へと、マテリアルそのものは一変しても、実はそこにたどれる文字のアウトラインは、20世紀初頭期に確定をみた日本語活字書体を大きく逸脱したり、超えるものではない。
I.ウォーラーステインのいう「広義の16世紀」に生じた「近代世界システム」に19世紀半ばに、否応なく決定的に遭遇、干渉をおよぼされた日本において、ともかくも確定をした漢字+仮名の混合という複雑な書体システムは、実に強力な文化の伝達基盤として機能し続けている。それは何より、この国の「近代」を決定的に支える情報流通の資源となったのである。いわば、われわれは未だに金属活字による「近代」という「機械時代」の延長上を生きているのであり、「ポスト近代」としての「電子時代」の展開はテクノロジー上においてのみ成立したのであって、人間の文化総体が、それを反映して更新するような時期は、はるかに先になることだろう。デザインを兆す美術・造形上の動向は「近代」以前から、美術史上のさまざまな部分に遍在しているが、認識としてのデザインはなにより、「近代」においてはじめて自明なものとして発生したものだ。われわれはそうした「近代デザイン」思潮という大きな枠組みの中で、個別のデザイン的な作業に取り組んでいるのだという、状況の確認に鋭敏であるべきだし、本研究における検証も、それを決定的な前提としたい。
しかし次に、この現在も進行中の「DTP時代」において、何も起こらなかったのかと言えば、明らかな事実誤認となるだろう。さまざまな別々個々の断片化した小さなデザイン上の「新奇」は数え切れないほどに、生まれてきて、現在もその変奏を続けていると言える。重要なのは、そこで産出されたグラフィックスが、どれだけ「新しさ」の感覚に訴えたかではなく、それらがどれほどソフトウェアにプラグインされた、多様なフィルターの、あらかじめ装着された実行プログラムの想定範囲内に収まってしまっているかということにある。機能内部に微分的に拡張されるイメージの「無限」が、実は、「限定」や「桎梏」をもたらしているのではなかろうか。そうしてみると「新奇」と思えたものは、現象としては不連続で継続性の希薄なちいさな「出来事」の散乱にすぎなかったのかもしれないのだ。
われわれはプラットフォーム化されたマシン・OS・定番ソフトウェアの上でしか作業をしない。重要なのはそのプラットフォームの外側、あるいはオルタナティブなプラットフォームを空想してみることなのだろう。
一方、IT技術がもたらした、より大きな目に見える変化としては、実は「ワークフロー」の概念等に集約される生産効率上の変化、およびその把握や操作について意識化がすすんだということではないだろうか。そうした「手続き」の意識の中から、次のフェーズにいたる方途の手がかりが得られるのではないかとも思える。それは、おおよそ次のような想定による。システム(社会システム)は長大な過渡期的な変化の中にあり、システムの「内在」に則した文化的な変容は、静かに浸潤をし続けるだろうと。しかしそれが成果=精華として表出するのには100年単位の長大な時間が必要だ。およそ15世紀に発するとされる「近代世界システム」は、いまややっと終わりを告げ、変容をしようとしているのだろう。現代の金融危機に対するのに個々の国家による規制は、十全に機能しない。すでに「近代世界システム」のもたらした「国民国家」の枠組みすら、さまざまに綻び始めているのだ。グラフィックス(文化)そのものよりも変動し続ける「手続き」の構造にこそ注目をしたいと考える所以である。
ここにひとつの事例がある。とりわけて1990年代に最も喧しく繰り返された論議に「書物の消滅」という話があり、それは「カルフォルニア・ドリーム」として、当初は夢にすぎなかった「DTP」が、現実の生産の技術として、「出版・デザイン」の製作の現場にいる者の手元に近づいてきた時代であった。「DTP」技術はパーソナル・コンピュータの進展の恩恵として、一般的には「大きな期待」をもって迎えられたが、従来からあった出版・印刷の各工程に携わる者たちにとっては自己の職能の消滅という「危機」をもたらすものとしても受け取られたという事実がある。典型的には「写植(写真植字)」のように現実にほぼ消滅してしまった技術工程もあるが、その後に起きた各職能における消長については、さまざまな予測のどれもが正確ではなかったと言えるような現在の状況にいたっている。
「書物」の生産(=出版点数)はたしかに縮小の方向に向かっているのであろうが、また一方には沸騰的な議論を呼んでいる、グーグル社による全書籍デジタル化の企てのように「書物」の「拡張」ともいいえる動向もある。
「書物の消滅」という論議は、実は「紙の消滅」の謂だったのだとも思える。だが結局、紙にとって変わりうるような表示デバイスが現実のものとなるような時代は、いましばらく訪れることはないであろう。
変わる可能性(の予感)に充ちていながら、なかなか変わり得ないのが、この世界の文化状況のようだ。事態は相対速度化された微細な推移の重層の中から立ちあらわれるのであろう。
そのような現状認識をふまえたうえで、本研究の具体的な目的は、「デザイン」「イラストレーション」「編集」に関わるさまざまな実践者による、それぞれの「作品」の紹介に則した論述を提供いただき、それを一巻の出版物として製作し、DTP技術/エディトリアルデザインの実験的実践として公刊することにある。それぞれの実践者は個別の現場の中で、最新の局面打破の経験に充ちており、その反映としての各論述は、さまざまな示唆に富むものになっている。
2008年度のビジュアルデザイン学科の連続特別講義は、「デザイン」「イラストレーション」「編集」「図像研究」をめぐるさまざまな実践の紹介をテーマとして開催された。
計4回の特別講義には以下の各氏をゲスト講師としてお招きした。
山口信博(グラフィックデザイナー、折形デザイン研究所主宰)
木村タカヒロ(イラストレーター)
祖父江慎(グラフィックデザイナー、コズフィッシュ代表)
小野明(編集者、エディトリアルデザイナー)
「特別講義」の現場で収録された講義内容は、音声データから文字おこししてテキストファイル化し、各講師のもとへ「校正・再構成」の依頼とともに送られた。各講師においては程度の差はあれ、かなり大幅な改稿作業をされて、更新されたテキストファイルが研究代表者のもとに返送された。同時に再構成作業に準じた参照掲載図版類が、印刷適正解像度を充たすファイル容量の画像ファイルとして送付された。ただしこの時点で充分な容量を充たす画像が手に入らない場合には、原典所有者(主に図書館・美術館)にフィルム等による画像の提供の依頼を行い、また必要なものについては掲載許可の手配もとった。集約されたデジタルデータ(文章=テキストファイル+図版=画像ファイル)は研究代表者を中心とするデザイン実践スタッフによりA5判変形のページ寸法(天地=210ミリ、左右=147ミリ)の冊子形式としてレイアウトされた。以降はプルーフベースでの校正確認を数度にわたり各講師から応答いただき最終ページアップ確定までにいたった。カバー等書籍体裁のためのデザイン作業もほどこして単行本としての形を整えた。
公刊には左右社の協力をいただいた。『デザインを構想する』というタイトルの一書として刊行された。
A 山口信博「折る造形の可能性」
山口信博氏は、グラフィックデザイナー・エディトリアルデザイナーとして活躍される一方、折形デザイン研究所を主宰されて、さまざまな紙の「折り」の造形の可能性に取り組んでいられる。ワークショップなどの場で展開される山口氏の考察には、「出版・デザイン」の基盤をなす「紙」についての、多くの示唆的な知見が溢れている。
この部分についてはページレイアウトそのものも山口氏の手による。きわめて静謐な格調に充ちたレイアウトが実現されている。
B 木村タカヒロ「絵VSイラストレーションVSアニメーション」
出版・印刷とウェブの世界の両方で同等の活躍をされている木村タカヒロ氏は、近年はキムスネイクの名でキャラクターアニメーションの制作にも力を注がれている。その独特で、きわめて造形性の質の高い顔面コラージュイラストレーションで知られる木村氏にとって印刷とウェブは地続きのフィールドとして展開している。
C 祖父江慎「うっとり」
祖父江慎氏には2007年度の特別講義でも講師を務めていただき、ユニークな活字書体成立史研究の論考を講義していただいた。2008年度の特別講義においては「うっとり」という言葉をキーワードとして、その独特のデザイン的感性の世界について講義をしていただいた。レイアウトは当然そうした祖父江氏の意図された世界観に沿うべく、さまざまなイレギュラーな配置をこころみた。
D 小野明「絵本のいま/絵本のこれから」
小野明氏はめざましい展開を見せている現代日本の「絵本」の世界のキーパーソンである。これまでに企画や編集やデザインで350冊以上の絵本・児童書に関わられているが、そればかりではなく、絵本ワークショップ「あとさき塾」を共同主宰されて、新人絵本作家の発掘にも力を注がれてきた。また著作活動を通じて「絵本」の歴史・評論の世界でも重要な仕事を残されている。特別講義では自身の「絵本」との出会いやさまざまな絵本作家との交流の紹介を通じて「絵本」的世界の実際についてお話しいただいた。
公刊された『デザインを構想する』は一般書籍の流通機構の中で「生きた」書籍として書店店頭におかれた。収録された論述が「読者」によって読み取られ、図版との照応により理解が深まり、さまざまなかたちでフィードバックされることが期待される。
(2008年度学部共同研究採択課題)