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論文|THESIS


コメニウス教育学における高齢化社会での「生」の意義(そのI)

The significance of the life in an aging society in the Comenius‘pedagogy(I)


貴島 正秋

KIJIMA masaaki


現代における高齢化が進行している中で「死」というものを教育学的な視点から考察した教育学者の一人としてコメニウス(Comenius,1592-1670)が考えられる。

コメニウスは「死」というものをマイナスという点からではなく、プラスの点から、つまり永遠の生、この現世の生の使命を果たすことによって人間としての知恵の頂点に達することができるかを考究した。コメニウスは「老齢期は生の最後の衰える部分、つまり死の隣人であり、老齢期も一つの学校で、老人も訓練の法則に従うべきである」としている(*1)。すべてのこの世の生は下位の学校であり、その下位の学校において人間は永遠のアカデミーに入る準備をする。この世は人間の育児室、保育室、学校であり、それ以外の何ものでもない。この考えは『大教授学』における「人間の究極の目的は現世の外にあり、現世の生は永遠の生への準備にほかならない」ことに通じるのではないか(*2)。人間は永遠に向かって運命づけられているので、この現世の生はただの通り道にすぎない。現世の生は来世の生を目指しているので、本当の生、つまりいつまでも続く生への序幕である。この下位の学校において人間は来生に役立つものすべてを用意されることによって、はじめてこの用意が出来次第、人間はこの現世を去ることが出来る。従って老齢期はこの世のすべての生の一部であり、この学校の一部であり、老齢期も「学校」であると言える。

それ故に老齢期にある者にとってもこれから以後の生が後退するのではなく、前進することを意味するために、この老齢期の学校には「教師、おきて、課題と訓育」がなければならない。人間はこの世の最後の学校、つまり老齢期の学校を卒業することによって、永遠のアカデミーに進むことができる。この老齢期に達する前に、来世の生への準備をせずに、無駄に時を過ごす者は「その日、その時はだれも知らない」(*3)ので、若いうちに地上から連れ去られるであろう。人間は誰一人として来世の生への準備ができていない者は、誰一人として永遠のアカデミーに入ることがあってはならない。今までのことすべてがむなしく、無駄にならないように、人間は老齢期には現世の生のあらゆる仕事が完成する時であるので、それぞれに注意、つまり人間は前もってそれぞれの時期には正しく振る舞うことを配慮しなければならない。

老人は一般に最も壊れやすい生段階にいる者と見なされ、コメニウスは老人は自分自身の欠陥を持っており、その行状は特別の欠陥を示すので、「老人は一人で暮らしたり、支えなく残されることは許されない」と考えた(*4)。そのために老人は無条件に色々な治療薬が使われ、処方箋に応じてその薬が正しく服用されることを教えられ、このような障害に備えなければならない。老人は自衛策を講ずることはできない。老齢における苦労の多い生では、肉体のみならず、精神も老朽化し、毎日活気づけたり、治療することが必要であるのは人間の運命である。この毎日活気づけたり、治療することに心を配らない者は年老いて動物のように振舞う。「戦争がまだ続く限り、また敵があたりをさまよい群がる限り、武器を手放したり、歩哨を離れてはならない」ように(*5)、「この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの、傭兵のように日々を送らなければならない」として(*6)、コメニウスは「人間は全生涯は兵役で、しかも老人は古い敵を持つのみならず、老人は新しい悔辱を蒙る」と述べている(*7)。何か非常に危険な企てを試みる際には非常に賢明であることが、要するに、慎重な行動を企てる際には事前に教えられることが必要である。ただ運を天に任せて危険に身を投じることは許されない。あらゆる恐ろしいもののうち死ほど恐ろしいものはないので、人間が生から死に移行すること自体はぞっとするようなものである。それにもかかわらず誰もこの世で如何に用意周到に、慎重に行動しなければならないかという戒めを気にかけていない。

身体が確実に衰え、精神も絶滅・破壊する恐れがあるのに、人間は死への移行に対して何も用意しないのは何故か。畑で実りが豊富であり、ブドウ園でブドウがたわわに実る時に、収獲を全く無に帰してしまう悪天候が襲来するのに何も用意しない者がいるであろうか。人間の世界は海のようで、人間の生は船のようで、生きとし生きるものはすべてはその船に乗っている。その船は海にいる限り、何時船は沈没する危険がある。そのために船が沈没しないように必要な配慮を払わなければならない。しかも多くの船が港の中で難破していることを知るべきである。コメニウスは「人間の生の港は死であり、故国は天国である。平和的に持ちこたえる者のみが天国に入れる。もし信仰と徳性が失われるならば、人間は永遠に天国から締め出される」と述べている(*8).

コメニウスは「老齢期の学校の目標、この目標を達成する手段そしてこの手段を正しく使用する仕方」を考察している。目標に関して、コメニウスは「もし最後のものにとって最後のものが、最高のものにとって最高のものが決定的であるならば、老齢期の学校、即ちすべての学校の最後の、最高の学校は人間に最後のものそして最高のものとして天の下で行うことが残っているものを必要としなければならない」と述べている(*9)。特に人間の全生涯は終わりが良ければはじめて良い状態である。しかしこの最高のものそして最後のものとは何か。それに対してコメニウスは「人間の生は一種の光栄ある頂点、つまり不死なる生の甘い(快い)序幕、そして最後に永遠なる生への至福な入場」としている(*10)。要するにコメニウスは「老齢期の学校においても老人は教えられなければならない、そして老人は(イ)今まで体験された生を正しく享受すること、(ロ)生の残りを正しく完全なものにすること、(ハ)全現世の生を正しく終えそして楽しく永遠の生に入ること」を知り、出来、欲することを学ばなければならない(*11)。それに応じてこの老齢期の学校にコメニウスは「三クラス」を配置している。即ち「1)老齢期の入り口にかかりそして自分のすでに果たされた、さらに果たさなければならない課題を考慮するクラス、2)少し老齢期に入り、まだ行われなければならないものを成就するのに急ぐ者のクラス、3)老齢期を過ごし死を待っている者のクラス」である(*12)。成程死を覚悟していることはそれぞれの年齢層にとってはふさわしく、有用である。特にこの老齢期にとって死を覚悟することは絶対に必要である。何故ならば若い時には死ぬということは多分偶然に生じるかもしれないが、老齢期においては死ぬということは避けることは出来ない。

最初のクラスに対してセネカは「いくつになっても勉学は立派なことだが、いくつになっても人から教えを受けるのは立派ではない。イロハを学ぶ老人など、醜悪で、お笑いぐさだ。若いときに用意し、年老いたら使うべきだ」と言っているように(*13)、コメニウスは「若者は用意し、大人は使うべきで、そして老人はすべてをかなえて終わらせるべきである」と述べている(*14)。老人が第一の段階にあること、つまり用意されたものにかかわり、第二段階にあること、使用することにかかわることはふさわしくない。コメニウスは「老人が先ず生きることをはじめる、つまり活動を停止して生き始めるなんてなんと醜悪なことであろうか」と嘆いている(*15)。この老齢期に達している老人は永遠なる世界、つまり死をありありと思い浮かべるので、老人には、その死ができる限り今はじまることを求めるのではないか。「いつかは行かなければならないあの陰府には、仕事も企ても、知恵も知識ももうないのだ」と言われるように(*16)、老齢期はまだ如何なる墓でも、自分が就いていた仕事を全く中断(中止)する時期ではなく、むしろ「生の一部」である。要するに人間の一生涯は仕事である。従って老人と言っても仕事を完全に辞めてはならず、完全に怠惰や無気力に身を任せてはならない、つまり人生の行路を完全なものにし、目標を上首尾に達成するためにやり残したことにますます熱心に専念すべきである。ここに老人は輝やかしく、至福な人生の末期の余裕を持つことが出来る。若い時には正しく生きることを、老いて来ると正しく死ぬことを熟考する。

最初の子どもの時から、この正しく死ぬということを特にこの世の事物の新しさ及びそのいろいろな多様さが感覚に好ましい思春期から考えなければならない。生への希望が老人の心から消えてなくなると、老人の存在は全く無に帰してしまうのではないか。老齢期において考えることは終わりに向けられ得るし、向けなければならない、即ち老齢期において喧騒はなくなり、正常な意識もすでに大部分低下している。老齢期に過ぎ去ったことをあれやこれやを振り返ることは重要ではなく、今や来るべき時代のものを果たすほうが重要である。老人はとにかく分別を失っていないならば、死が近いことをありありと思い浮かべ、例え死が予期せずに生じたとしても、その死を受け入れること以外何を熟考すべきか。

コメニウスはプラトンの「魂の肉体からの解放と分離(死)こそが、そっくりそのまま知を求める者の不断の心掛けであったのだ」を挙げて(*17)、老人は死ぬことを学ばなければならないとしている。「死」は当然生じるので、コメニウスは「正しく死ぬことは、術のうちの術である」と述べている(*18)。しかし死ぬことを学んだり、死ぬことが出来ることではなく、死によってあらゆるものの最後のものがある領域、つまり永遠自体にわけ入ることに満足すべきである。成程生は動きで、死は休息であることは真である。しかし人間の死は人間に終わりをもたらさない、つまり「死は人間の生存に最後の結末をつけるものではない」、要するに「死は人間を別の場所に移すこと」である(*19)。死は人間が考えること、望むことそして苦労することをやめることではない。否むしろ、最終的に終止符を打つ永遠自体に入ることで、これ以上に人間は考えることがあるか。コメニウスは「死は永遠が回転する一点、要するに中心点にすぎない」と考えている(*20)。

老齢期の学校で学ぶにはどのような手段があるか。その手段は他の学校と全く同じで、コメニウスは「実例、規則と絶えざる実践的な応用―その最高のそして全く最後の形において―である」としている(*21)。最も優れた実例はしかし生のラストシーンを飾る徳性を最高に身につけている者において見出すことが出来る。規則や非常に役立つ訓戒を聖書が与えている。その書物は人間に絶えず永遠を想起させるものである。さらに他の正しい、善なる警告者でもある。その警告者は人間と共に生き、人間に語りかける。書いて見せられ、あるべきことはコメニウスによれば「I、先ずこの世から別れることを命じられるならば、天に入るという確かさを手に入れるために、自分の魂の世話をせよ、II、生の残りが完了した場合はじめて、苦痛や苦悶なくして静かに、安らかに永眠し、お墓において安息を享受することが出来るために、肉体の世話をせよ、III、最後に死後も自分の元での光栄ある名声をも配慮せよ」と要約している(*22)。老人は自分を飾り立てる徳性に全く知らないということがないように、自分の努力を向けるためにこの規則を十分に、完全に応用することは必要である。自分の努力すべてを、自分を飾り立てる徳性に全く未知でないように、この規則の十分なそして完全な応用は必要である。そのためには老人は単なる外観のみならず、全く心から日々肉体とこの世が徐々に消滅することに、さらに生のつまらなさを後に残さないことに尽力すべきである。また自分自身と他の者に確実に役立つために、ただまじめな事を行うことに努力すべきである。

木々は成長すればするほど、要するにその根が地面の中で広く分岐すればするほど、ますますそのこずえを天へ高く広げるものである。老人も年々活動的に振舞えば振舞うほど、ますます永遠(死)を自分の前に見るであろう。時宜を得た春樹木は花で飾られる。しかし実を結ぶ季節であれば樹木は実を落としそして人間にその実を与える。その樹木が葉をつけているのは飾りのために、また護るために葉をつけている。しかし最後には樹木はその根をしっかりと地に張ることにただ葉を落とすものである。人間もその青春という第一の全盛の後そして自分のライフワークが実を結んだ後、たとえどんなに大きなものであろうとも、慎ましやかさという飾りをできる限り、長く持ち続けられることのみに気をつかわなければならない。そして最後に人間はこの慎ましやかさという飾りを後に残すのである。その結果人間はしっかりと永遠の地、つまり自分の神に根を張ることが出来る。

老人の努力は壮健で、かくしゃくとしている、しかもつらいが、終わりに近づく年齢に応じて行われるべきである。老人はそれぞれの年齢で、即ちそのつど他の事を他の仕方で行うに違いない。それぞれの時期の目標と仕事領域は年齢の重荷によって判断すべきではなく、目標や仕事領域はむしろ体力のはつらつさ並びに衰えに左右されるのではないか。先ずかくしゃくとしている老齢期の仕事領域としては今まで歩んできた生を正しくかなえることが考えられる。コメニウスはその方法として「I、静かに立って自分の過去を振り返らなければならない。正しく行われたことを、喜び、首尾よく行かなかったことが改良されることを考えるべきである。II、現在を概観し、自分の生の限界が近いことについて自分の日の夕方、自分の週の日曜日、自分の年の収穫として喜ぶべきである。III、なお行うことが残っているように思われるものを見張り、この意図を実現しようとすべきである.IV、しばしば起こりうるし、まさにしばしば振りかかる不幸なケースに気をつけるべきである。老人は不幸なケースを恐れ、それに注意を払い、それを祈ることによって回避しようとするべきである。V、いろいろな病気やその他の苦悩に注意を払い、これまで以上に慎重に健康な生活様式に留意しなければならない」と挙げている(*23)。

神は自分の創造の仕事を終った後「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」ので(*24)、コメニウスは「まもなく仕事から身を引くであろう老人は神を模倣せよ」と忠告している(*25)。したがって老人は自分を振り返り、自分の仕事すべてがうまく行ったか、行かなかったかを考察すべきである。もしその仕事がうまく行ったならば、「その行いが報われる」ので(*26)、それを喜び、神を称賛し、その仕事は後に続くのである。もし老人がヒゼキヤのように死の病にかかっている時、証言者として神を求めるならば、老人は「わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください」と言われているように(*27)、老人は神の前では真に誠実な心でもって振舞えるし、心の目の前で正しいものを行える。もしそれに反して老人が不正な振る舞いをしてきたならば、悲しみ、陳謝し、許しを請い、その行いをやめ、恩寵を得るために出来る限り正しい行いによって償いをしなければならない。もし老人がこのようなことを行えば、「悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない」とか(*28)、「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から」と言われるように(*29)、この最後の行いは老人にとっては最善の行いであり、運を天に任せて神によって誓約された約束に従って寵愛の希望をもってもよいのではないか。

もし老人が存命中に行いそして蒙ってきたことにおいて、善悪が混じていたならば、「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら、わたしはあなたを、わたしの国となる。あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ」と言われるように(*30)、無価値なものを投げ出し、価値の高いものを純化するために、要するに価値の高いものを無価値なものから離さなければならない。悪い行為が存命中に灰になるために、悪い行為を心から悔い改め、老人は悪い行為を火の中に投げ入れなければならない。善なるものはすべて「自分に命じられたことをみな果たしたら、わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです」と言われているように(*31)、神の慈悲深さの中に投げ入れられる。ここに生のお召しや収穫があるのに、人間は何故に人生の課題を終了した後に、人生の最後の部分、つまり老齢期を、神を尊敬し、自分を慰めるための最大の祝祭日によって祝おうとしないのか。

老齢期を人生の最後として終らしてよいのであろうか。そのためには老人は慎重さを欠いた、なげやりな無為な生活に耽らずに、分相応な、自分の前に開かれている人生の残りを、精力的に職業に就いて過ごすべきである。老人は仕事をせずにぶらぶらすることにおいて自分のよろこびを求めてはならず、むしろ自分の骨折り(苦労)が終りに近づいていることを望んで自分のよろこびを求めなければならない。老人はいつ死という最後が到来するかもしれないので、仕事をするどのような機会をいつでも捉えるのに決して怠けてはならない。しかし老人は自分の力を超えているものを調子に乗りすぎて始めたり、要するに人間は一生涯無分別な行動を取ったり、取るに足らない希望を抱かないように注意しなければならない。特に最後の時期、つまり老齢期に入っている時には、表面的な注意を払う必要がなくなった時には無分別な行動を取ったり、取るに足らない希望を抱くことを完全に放棄すべきである。

老人が堕落するのは、例えば慎重さを欠いた、軽率なコックスは港においてさえ座礁し、船をバラバラに壊すように、突然身に降りかかる。老人はよく自分の性分で多くの不幸なケースにさらされる。多くの老人は表情や悟性を失なったり、わがままな、恥知らず、傲慢な者になり、変人、世間知らずに、無神論者や背教者になっている。つまり天使のような若者が年を重ねるにつれて悪魔に変ずるのは非常に悲しい光景である。天使のような若者が年を重ねるにつれて悪魔に変ずるのは、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌しいことを行うなら、天使のような若者は生きることができるであろうか。老人が今まで行ってきたすべての正しいことは誰にも思い起こされず、背信行為と犯した過ちのゆえに老人は死に値する。このようなことが言われないために老人はたえず「若いときの罪と背きは思い起こさず、慈しみ深く、御恵みのために、主よ、わたしを御心に留めてください」や「老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください」、「御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって安らかな地に導いてください」と祈り(*32)、その結果老人は「あなたは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」ことを思い出すことによって(*33)、老人は救われるのではないか。

このような不幸な出来事の危険をできる限り少なくするために、生の健康、徳性と健全な悟性に対して通常どこから危険が迫るかをいつもよく注意を払うように、老人は賢明に行動すべきである。コメニウスはその危険は「余りにも大きな社会的な交わり、この世の事(世事)に余りにも熱心に気にかけること、財産、生の外的な体面や安逸を余りにも高く尊敬すること」から生じるとしている(*34)。老人はそれぞれの点において切り詰めた方がよく、孤独、休息や飾りのなさを大層裕福で80歳という高齢であったので、善悪の区別も知らず、何を食べ、何を飲んでも味がなく、王の重荷になり、父や母の墓のある自分の町で死にたいと考え、王と共に生活してほしいという申し出を断ったバルジライのように、愛すべきである(*35)。さらにセネカも言っているように、「僕は牡蠣と茸類は生涯食べないことにしました。つまりこれらは食べ物ではなく、すでに満腹の胃腑に無理矢理に大食いさせんとする眼の欲で、大食漢やまた自分の消化出来る遥か以上に詰め込む連中には、大いに歓迎すべきことですが、そんなものは下るも早いが戻すも早いのが落ちです。そこでまた僕は生涯香料を遠ざけています。、、、僕の胃は酒を断っています。、、、僕は生涯浴場を避けています。、、、心の負担からすれば、全く切り離してしまう方が節制するよりもたやすいからです」(*36)。

老人はすでに自ら病気であり、しかも治療できない病気にかかっており、さらに不摂生や強欲によってこれから奮闘しなければならない新しい色々な病気にかかっている。老人は衰弱することを避けられないが、しかしその弱さが進行することを食い止め、あるいは少なくとも色々な辛苦から解き放されるべきである。人間は自分に課せられたものを平穏に終了するために何か有用なものを行うことが残っているならば、それ以上に生きたいという願望を持つことも、あるいはその生活を悲哀から解放されて終えることもできない。人間は年老いても何かを行うべきである。人間は高齢になっても頭を働かせることは良いことである。老人は自分の日の終わりが差し迫って来ていると感じれば感じるほど、自分のこの世での課題を実現・成就することにますます気を配るべきである。老人は自分自身と自分の子孫に役立ちうるものに自分のすべての、つまり自分に残されている時間のすべてを費やさなければならない。老人は年を取れば取るほどますますあつく敬虔と道徳的な厳格さを磨き、正しい考えをますます注意深く身につけることにその存在する意義がある。老人が敬虔や道徳的厳格さを磨き、正しい考えを身につけることを1)自分自身のためのみならず、つまり老人が自分の最後まで純粋な良心を持ち続け、手に入れるために、2)他人のために、つまり老人ができる限り多く知恵の真の弟子、神の誠実な崇拝者そして国家の正しい・善なる市民を後に残すためにも行うべきである。老人は自分の終わりまで「徳性の最もきれいな鏡、秩序の最もしっかりとした柱やあらゆる善なるものを求める最も熱心な警告者」でなければ(*37)、敬虔や道徳的な厳格さを磨いたり、正しい考えを身につけることは不可能であろう。

「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい・いつかは行かなければならないあの陰府には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」というソロモンの警告の言葉に従って(*38)、キリストは自分の生の終わりに多くのことを教えそして働きかけたし、特に生まれつき眼の見えない者を癒す時、特別に立派な行為において使用した記憶に値する言葉を思い出すことも必要である。その言葉とは「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わなければならない。だれも働くことのできない夜が来る」である(*39)。人間は、生の光がある限りは働かなければならない。まじめな熱心な老人は一人残らず何よりも先ずすでにこの世のつまらないことを見抜き、信心深い、敬虔な、賢明なそして老練な者は支配者の立場についていることを確信しており、立ったままで死ぬことを望むものであるので、すでに死の病気にありながら、今なお国事に精を出し、自分をいたわることを強く勧告した自分の友に「支配者は立ったまま死ぬべきである」と答えたウェスパシアヌス以外のことは何一つ考えるべきではない。しかし人間が自分の生業を最後までやり遂げるためには、できる限りの手段や技巧を使用しなければならない。余りに遅く終わり(死)が来ないために、人間は人生の真ん中において一つの区切りをしなければならない。もし自分の生の責務が木っ端微塵に砕かれるならば、老人は、港に近づいているかのように、自分の帆を収めることになるのではないか。

 

主要参考文献

Johann Amos Comenius: Pampeadia, Quelle & Meyer・Heidelberg. 1965
Jan Amos Comenius:Grosse Didaktik .Volk und Wissen Volkseigener.
Verlag Berlin .1961

注・引用文献

*1―
Johann Amos Comenius:Pampeadia(以後はPam.,と略す)。S.419
*2―
Jan Amos Comenius :Grosse Didaktik(以後はGDと略す)。S.60とS.64
*3―
マタイによる福音書;XXIV-36
*4―
Pam,.S.421
*5―
Pam,.S.421
*6―
ヨブ記;VII-1
*7―
Pam,.S.421
*8―
Pam,.S.423
*9―
Pam,.S.423
*10―
Pam,.S.423
*11―
Pam,.423
*12―
Pam,.423
*13―
セネカ:『道徳書簡集』36-4 東海大学出版 茂手木元蔵訳 1994
*14―
Pam,.S.425
*15―
Pam,.S.425
*16―
伝道の書(コヘレトの言葉)IX-10
*17―
プラトン:プラトン全集・パイドン:67-D
*18―
Pam,.S.427
*19―
GD,.S.62とPam,.S.427
*20―
Pam,.S.427
*21―
Pam,.S.427
*22―
Pam,.S427
*23―
Pam,.S.429
*24―
創世記:I-31
*25―
Pam,.S.431
*26―
ヨハネの黙示録:XIV-13
*27―
イザヤ書:XXXVIII-3
*28―
エゼキエル書:XVIII-21
*29―
エゼキエル書:XXXIII-1
*30―
エレミヤ書:XV-19
*31―
ルカによる福音書:XVII-10
*32―
詩篇:XXV-7,詩篇:LXXI-9,詩篇:CXLIII-10
*33―
イザヤ書:XXXXVI-3,4
*34―
Pam,.S.435
*35―
サムエル書記下:XIX-33,34,35,38
*36―
セネカ:『道徳書簡集』108-15
*37―
Pam,.S.437
*38―
伝道の書(コヘレトの言葉)IX-10
*39―
ヨハネによる福音書:IX-4

    

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Jan Amos Comenius :Grosse Didaktik(以後はGDと略す)。S.60とS.64
マタイによる福音書;XXIV-36
Pam,.S.421
Pam,.S.421
ヨブ記;VII-1
Pam,.S.421
Pam,.S.423
Pam,.S.423
Pam,.S.423
Pam,.423
Pam,.423
セネカ:『道徳書簡集』36-4 東海大学出版 茂手木元蔵訳 1994
Pam,.S.425
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プラトン:プラトン全集・パイドン:67-D
Pam,.S.427
GD,.S.62とPam,.S.427
Pam,.S.427
Pam,.S.427
Pam,.S427
Pam,.S.429
創世記:I-31
Pam,.S.431
ヨハネの黙示録:XIV-13
イザヤ書:XXXVIII-3
エゼキエル書:XVIII-21
エゼキエル書:XXXIII-1
エレミヤ書:XV-19
ルカによる福音書:XVII-10
詩篇:XXV-7,詩篇:LXXI-9,詩篇:CXLIII-10
イザヤ書:XXXXVI-3,4
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サムエル書記下:XIX-33,34,35,38
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