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図0-2-1 神戸市西部のニュータウンとその周辺(google earth)

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図0-2-1 神戸市西部のニュータウンとその周辺(google earth)


図0-2-2 レッチワースのノートンコモン(空撮:齊木、1998.5)

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図0-2-2 レッチワースのノートンコモン(空撮:齊木、1998.5)


図0-2-3 シカゴの田園郊外住宅地「リバーサイド」(写真:齊木、2007)

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図0-2-3 シカゴの田園郊外住宅地「リバーサイド」(写真:齊木、2007)


図0-2-4 イギリス・ドーチェスターの「パウンドベリー」(写真:宮代、2006)

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図0-2-4 イギリス・ドーチェスターの「パウンドベリー」(写真:宮代、2006)


図0-2-5 新・田園都市国際会議つくば(写真:斉藤さだむ、2001.9)

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図0-2-5 新・田園都市国際会議つくば(写真:斉藤さだむ、2001.9)


図0-2-6 新・田園都市構想マトリクス

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図0-2-6 新・田園都市構想マトリクス

0-2 「ガーデンシティ舞多聞」が生まれた背景

0-2-1 戦後日本のニュータウンの50年とガーデンシティの100年

近年、日本では、少子高齢化が進展するとともに、人口減少期を迎えており、戦後の高度経済成長期に開発されたニュータウンの一部においては、開発から50年を経る前に、空家・空地が目立つ地域が発生するとともに、これらが犯罪の温床になりかねないなど、良好なコミュニティの維持・管理が困難な状況が生じている。(図0-2-1)

一方、「ニュータウン」の指針となった「田園都市思想」の最初の実践である、イギリスの「レッチワースガーデンシティ」(1903)は、修正を繰り返しながら100年を超えた今も生きつづけ、更なる質的改善に取り組んでいる。「田園都市思想」は、1898年、イギリスのエベネザー・ハワード(1850-1928)が、産業革命末期のロンドンの劣悪化した居住環境の改善策として、自著「明日-真の改革への平和な道」で提言した、「田園」と「都市」の社会構造を融合させた定住形態である。この思想は、空間のみならず、コミュニティやマネジメントのあり方についても示唆し、近代以降の都市計画の礎として位置づけられている。

私たちは、レッチワースの100年の経験に学び、戦後日本のニュータウンとその環境の再生への手掛かりを得ることが可能であると仮説した。(図0-2-2)

0-2-2 ガーデンシティ以前から以後、そしてニュータウンへ

「田園都市思想」の提言者、エベネザー・ハワード(1850-1928)は、20代をアメリカ・シカゴで過ごしている。その際に、1869年に開発されたシカゴ郊外の田園郊外住宅地「リバーサイド」を見ており、この経験が「田園都市思想」を生み出す最初の契機となったと言われている(図0-2-3)。また、タウンプランナー/建築家のレイモンド・アンウィン(1863-1940)は、イギリスの中世からつづく集落をサーベイし、「地形を生かす」「ビレッジグリーン」「集落空間」という概念や要素を、レッチワースのマスタープランに採り入れている。このように、「田園都市思想」や「レッチワース」は、それまでの歴史的経験に学ぶことによって提案・実践された。また、これらの経験が、イギリスのセカンドガーデンシティ「ウェルウィン」(1919)やアメリカの「ラドバーン」(1929)、戦前日本の阪神間の郊外住宅地(1910年代‐1930年代)や「田園調布」(1923)へ、さらには第二次世界大戦後の「ニュータウン」の事例へと引き継がれていくのである。しかし、ニュータウンでは、政策的な理由から、「田園都市思想」の形態的な観点が部分的に採り入れられたにすぎない。

0-2-3 量から質の獲得へ

ニュータウン政策は、第二次大戦後の住宅不足補充のための「量の獲得」を目的としていたと言われている。戦後30年を経た1970年代になると、「質の獲得」を目指したコミュニティづくりが試みられるようになる。アメリカの「ビレッジホームズ」(1975)やドイツの「カッセル・エコロジー団地」(1984)といった「エコロジー」「自然環境」に着目したプロジェクトや、アメリカの「シーサイド」(1979)、イギリスの「パウンドベリー」(1993)、そして、宮脇壇デザインによる東京「高幡鹿島台ガーデン54」(1984)等、「伝統的な集落の空間構成」に着目したプロジェクトが「質の獲得」を目指したコミュニティづくりの代表事例として挙げられる。(図0-2-4)

0-2-4 「新田園都市国際会議2001」

レッチワースの建設開始から100周年を目前に控えた2001年9月、レッチワース財団、つくば市、神戸市、ウエストミンスター大学、そして神戸芸術工科大学が中心となり、つくば市と神戸市において、「田園都市思想」と「レッチワースの100年の経験」に着目した「新・田園都市国際会議2001」を開催した。(図0-2-5)

会議には、日本国内からの参加者に加えて、アジア・アメリカ・ヨーロッパ・オセアニアの13カ国から延べ1,563名の参加者を得て、多様な時代や地域のまちづくりやコミュニティづくりが議論された。多岐に及ぶテーマは「過去に学び、現在を知り、そして未来へつなげる」という3つの側面から整理され、そこでの成果は、「新しい空間デザイン」や「新しいコミュニティ」の創出を目指した18項目のコンセプト「新・田園都市構想」として集約された。(図0-2-6)

0-2-5 ニューガーデンシティ「舞多聞」の実践へ

2001年末、神戸芸術工科大学は、「新・田園都市国際会議2001」の後援組織であった都市再生機構(当時、都市基盤整備公団)から、「新・田園都市構想」に基づいた「神戸学園南地区(ガーデンシティ舞多聞)」のマスタープランデザイン案策定を受託した。

また、2002年には、都市再生機構が、新しい郊外居住のあり方を求めた「新・郊外居住宣言」を提言した。齊木は、この提言策定の際に設置された「新郊外居住部会」の委員を務めた。

同年、都市再生機構は、「神戸学園南地区」を「新・郊外居住」の実践プロジェクトとして位置づけ、神戸芸術工科大学によるマスタープランデザイン案のコンセプトを、「F工区(てらいけプロジェクト)」、そして後に「B工区(みついけプロジェクト)」で採用することを決定した。以降、本学は事業協力者として、「ガーデンシティ舞多聞」の「スペースデザイン」「コミュニティづくり」「エリアマネジメント」をサポートしつづけている。


 

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