「記録映画を見る会」が自主制作した『西陣』については、既に多くのことが語られてきた。本論ではこの映画作品の企画誕生から資金調達、制作(シナリオ執筆、撮影、編集、録音)、そして完成後の上映、さらには作品を巡って生じた騒動などに関して概観する。その上で「記録映画を見る会」の長年の願望の実現が、結局、会自体の消滅を招いたという歴史の皮肉を解明したい。
まずは本稿第1部のように、内部にあって冷静に会の動向を記録してきた小野善雄の文章を導き手にし(『西陣』カタログ所収(写真11))(*19)、それに補足するカタチで枝葉を付けたい。小野も記すように「記録映画を見る会」で西陣を映画にする話が持ち上がったのは1958年、最大の会員数(50人近い)を擁する堀川病院の関係者からであった。西陣の職業病を自分たちで記録映画に収めたいという企画であった(*20)。しかしそのような発端となる提案に対して、小野は「西陣に働く人々の健康の問題は西陣の生活環境と密接に結び付いていて、単に職業病とか健康水準とかをそれだけで取出してくることは余り意味がない」からテーマが拡張され、「西陣の社会全般を取扱った記録映画を製作」するという構想になったと記している。
ちなみに小野の文章には出て来ないが、西陣の人々の健康状況やそこでの病院医師の取り組みについてはあるニュース映画が取り上げ、報道した。新理研映画制作の「毎日世界ニュース」、第373号(1958年10月8日)の中の2分足らずの「西陣のひとびと」である。祇園の舞妓の着る華やかで高価な装いの裏に、伝統を守りつづけるとはいえ、わずかな工賃で無理な姿勢を続けながら職業病をわずらう人々が多く、病除けの迷信が言い伝えられてきた。数年前から自分たちの健康を自分たちで守ろうと病院を開設し、織り手と医師が協力して調査を行い、職業病の追放にのり出した、という内容であった(*21)。
1958年後半から映画製作の気運は、作家たちの西陣訪問を促す。やがて西陣で起こっていることが日本のあらゆる場所で生じていることであると感じられてくる。小野はこう書く。「西陣は物質的にも精神的にもいわば日本の社会の縮図」であり、西陣で「克服さるべき多くの困難な諸問題は、そのまま私達自身にとっても解決を迫られていることがら」である。つまり西陣を映画にするとは、「西陣の特殊性をも包含しながら、私達みんなにとっての普遍的な問題を提示」することである。そのような映画こそ「ドキュメンタリー・フィルム」なのであり、「われわれの日常生活の創造的な劇化」を行うものである。単なる風俗や産物の紹介や旅行記は「レコード・フィルム」でしかない。このように定義付けをした後に、小野は「記録映画を見る会」を始めた背景――この国の記録映画界の現状が不満足なものであり、劇映画と同じように「陽の当らない記録映画の分野においてもやはり商業的な条件が作家たちの自由な創作活動を制約して、その批判精神を抑圧」していること――を再確認する。『西陣』の自主制作は、上記のような「格好な素材が眼の前にある」ことだけでなく、「商業主義に支配された映画界の状況を打破って創造精神に溢れた自由で新鮮な作品を自分たちで創り出したいという強い意欲が支えとなっている」と強調するのである(*22)。
「記録映画を見る会」事務局の中心メンバーであり、『西陣』のプロデューサーとなる浅井栄一の機関誌「眼」13号掲載の主張も押さえておきたい(写真12、13、14)(*23)。浅井は「さまざまな芸術ジャンルのなかで『記録映画』の世界ほど、思想性と方法の上で遅れているところはない」と考え、そうした見解が「記録映画を見る会」の中でも一般化していると記す。それでも例会を続け、良い映画を紹介出来ることを期待しながら、作家たちの活動を見守ってきた。しかし、状況はおもしろくない。そこで自分たちで作品を制作したい。「40分ぐらいの白黒映画なら、最低に見積もって百万円近くで製作できる」とし、年に2本はどうかと提案する。浅井は、百万円という予算が例会を1年間続けることのできる金額だと述べ、困難さを認めはする。しかし、「記録映画を見る会」の主張は当初からも自主制作を目的の一つとしていたこともあり、制作に取り組みたいとする。
そこに出現したのが既に私たちも見たところの「西陣」制作の気運である。この企画は多くの人を抱き込みながら膨らんでいった。詩人の関根弘、野村修、記録映画作家の松本俊夫、岩佐氏寿などが西陣に調査に来た。浅井は、この映画制作の試みが「わが国の記録映画作家の当面している壁を打ち破る思想と方法に何らかの方向を提示」することに、大勢の芸術家が期待していると述べる。つまり、日本の記録映画の現状変革への期待である。とはいえ、ことは簡単ではない。「眼」の同じ号の巻頭言が批判しているように、「企業の外で労働者が自主的に」映画を作ることだけで充足してはならないからである(*24)。かくして、浅井は「つくること(森下註:傍点が付いている)に意義があるのではなしに、あくまで、出来上がった作品の質が問題である」と自己を戒める。同時に彼は「戦後の、最もすぐれた記録映画の一つが、わたしたちの『会(森下註:記録映画を見る会)』から生まれることを期待したい」との意気込みを語るのである。
浅井栄一が、そして「記録映画を見る会」全体が、多大な労力と金銭的な負担をいとわずに『西陣』制作を進めた根本とは以上のような期待である。したがって脚本と演出に気鋭の関根宏と松本俊夫を起用し(写真16)、撮影はある経緯からこれまた大御所である宮島義勇が加わり、音楽に三善晃、その他、観世栄夫、日下武史などの錚々たるスタッフ構成となったこと(「西陣」のロゴマークを粟津潔が作成し、カタログのイラストは真鍋博)。彼らは趣旨に共感し、困難な条件を承知の上で参加したこと。また「記録映画を見る会」だけでなく、多くの人々がカンパなどの支援を行ったこと――これらの根底にはこの国の記録映画を(ひいては映画全般を)変革する作品を自分たちで生み出したいとする願望があったのである。前に引用した小野の言葉をもう一度繰り返すなら、「商業主義に支配された映画界の状況を打破って創造精神に溢れた自由で新鮮な作品」の創出である。
再び小野善雄の小文に戻る。小野は映画制作実現の最大要因は「経済的な力」であるとし、企画の進行に並行して起こった資金繰りの顛末を報告している(*25)。芸術映画社、堀川病院、京都市、西陣織物工業組合、そして、完成間近の新世界プロダクション、という団体が関わったり、離れたりした。なお、小野は簡単に「一般から広く製作資金カンパをお願いする」としか触れていないが、「記録映画を見る会」は独自に資金募集を行っている。「ぼくたちの映画が出来る/協力券80円」というチラシ(写真15)には説明書きが掲載されているが、それは以下のようである。
「西陣」は劇場の緞帳、歌舞伎衣裳、高価な着物などで象徴されるように織物の町として有名である。「西陣」を記録映画にするのは、伝統産業としての豪華な織物にたいする関心からだけでない。あるいは、そこに働く人びとの生活――いくらか一般的には、伝統化されている暗い織手さんの生活を描くことだけでもない。日本の現実に絶えず関心をもつていて、わたしたちが京都に住んでいるということが、この場合西陣に関心をもたざるを得なくしたといってよいだろう。したがって、このテーマは西陣を通して、日本の深部を描くことである。わたしにも、あなたにも共通する日常生活でかくされている深部の状況を西陣を通じてとりだすのである。それは映画でなければ描けない。しかも大胆な実験精神と思想をもつた作家にしか描けない。そして更にこの試みを支持する広汎な観客の積極的な協力がなくてはつくれない(*26)。
その後、主として東京在住の発起人による「記録映画「西陣」製作上映運動を支援する会」が結成され、1961年5月10日付けで趣意書「記録映画「西陣」製作上映運動をさらに広めよう!」が発行されている(写真17)。費用を切り詰めたとはいえ、出費は多額の金額になり、結局相当額の赤字が残った(新聞報道などから推察すると、経費総額が250万円、業者関係約70万円、京都市から約10万円、後述の協力券カンパが約7千枚約50万円、新世界プロダクションが約50万円となり、70万円の赤字と概算出来る(*27))。先に見た浅井の目算、つまり、例会を1年間続けることのできる金額が百万円とするなら、『西陣』制作費は2年半分となってしまったわけである(*28)。
紆余曲折を経て、先述のように遅れたりしたが、東京では1961年6月27日に、京都でも関係者への試写会が7月12日(一般特別試写は翌13日から15日)に行われている(写真18)。京都での様子は報道されているが(*29)、西陣業界関係者の激怒となった。その後、京都市や西陣関係者との一連の騒動へと発展する。他方、作品は多くの観客の注意を惹き、雑誌「記録映画」が特集を組むなど肯定的/否定的を問わず多くの批評が書かれた(*30)。先に「現代芸術の会」に関して述べた際に言及した京都新聞の記事は、『西陣』が未だ制作の準備段階にあった時に、次のような指摘をしていた。「西陣という特殊世界の解釈法」がそれである。一方で制作者側の発想である西陣の世界に潜む日本の姿の凝視がある(これは先に辿った小野の経緯説明文に書かれていたことと近しい)。他方で京都市や西陣の人々の心配、つまり、制作者の意図は理解は出来るが、西陣を暗い斜陽産業と見、織工の悲話を主題にしがちなであることへの不安も無視してはならないとする。無署名の記事は「かといってPR映画とはちがう。前人未到の世界を開拓するには、根気と勇気がいる。京都の前衛作家たちは、この当面の問題をどうさばくか、ひとつの試金石であろう」、と終わる(*31)。
結局、早い時期にここで「試金石」といわれたことが後々も問題の鍵となっていたと分かる。
その後は新世界プロダクションの矢野新一が、新たなスタッフによる追加撮影フィルムも加えたかたちで『織物の街・西陣』を完成させた。『西陣』はかくして、2本制作されたのであるが、浅井が説明するように「第二作が市や、業界のとっては第一作なのであり、第一作はないのである」(*32)。しかし歴史は存在し得ない第一作を現在に残しただけと推察される(浅井栄一は当時「第二作」を見たという(*33)。私は残念ながら現時点までにその存在を確認していない)。古くは1974年の東京国立近代美術館フィルムセンターでの「日本の記録映画特集――戦後篇」にて上映され、最近ではDVD版の「松本俊夫実験映像集」(*34)にも収録されている。とにもかくにも日本の映画史を構成する重要な作品であることは周知であろう。
なお、「記録映画を見る会」の中に設置された「西陣委員会」(委員長:野村修)は、1961年10月19日付けで、「委員会の責任で上映(商業ルートにのらない、またライブラリーへの配布をしない、というかたちでの愛好者グループによる上映)の運動」を開始する旨、文章で業界や市に通知している(*35)。その後、この作品が第13回ヴェネツィア国際映画祭記録短編映画部門で「銀獅子賞」を受賞した際に(写真19)、ふたたび映画祭への出品上映が可能であったかなどを巡ってまた一悶着あった(*36)。
要するに『西陣』を巡る一連の騒動を通して、確かに「記録映画を見る会」がかねてから主張していた問題、つまり真の意味での創造的記録映画とは何かという問題を考えさせることにはなった。とはいえ、それは浅井の願いである「現実変革」を生み出すことには至らず、結果は却って現実がその追認を迫り、ある意味ゴリ押ししたのである。あくまでも現代の視点での意見であるが、西陣(地域、人々、職場、業界)は作品『西陣』によってたとえ少しであっても自己変貌を遂げるべきであったのであり、それが困難であったことは西陣と『西陣』両者共に何かが欠けていたと考えざるを得ない。
そして以上の結果に伴う代償も大きかった。本章の冒頭に記した皮肉、つまり「記録映画を見る会」は『西陣』の「完成」によって自らの存在を終了させることになったという皮肉である。先に見たようにかなりの負債が浅井栄一に残り(金銭的な迷惑を掛けた方々も多かったらしい(*37))、また京都市の関係者、特に西陣業界の人々との間がまずくなった。演出の松本俊夫は後年、やや茶化した表現であるが、「浅井君は京都にいられなくなっちゃうとか、僕なんかも『歩いていて殴られるかも知れないから、しばらく京都に行くな』と言われ」たと述べている(*38)。後に浅井は以下のように述懐している。それまでにプロデュースは経験していたが、高額のリスクを完全に背負い込むのは『西陣』が最初であったとし、「作品は評価されたけれど、経営的には大失敗作だったのである。わたしはまだ30才になっていなかった。わたしは、多くの人たちに迷惑をかけたが、世間はそれを大目にみてくれたようであった(*39)」。しかし、最終章で少し触れるが、京都における自主上映の文脈からはそう大目には見られなかった。