第4期の最後の頃の活動は資料的には極めて辿りにくいが、既述の「作家個展シリーズ」(1961年7月~8月、3回開催(写真20))以後、「記録映画」誌に掲載された告知情報などからうかがい知れるものは、1961年11月例会(12月例会か?)と1962年3月例会である(*40)。その間に、1961年12月5日開催の「theme|音楽」と銘打った催しのチラシが残されているが(写真21)、これについては浅井栄一は確かに開催したと述べている(*41)。2部構成の第1部が音楽と話による構成で武満徹の『弦楽のためのレクイエム』と、『不良少年』(羽仁進)のための音楽を取り上げた。第2部、映画は第1回草月シネマテークのプログラムから『西陣』以外の2本ほかを上映した。
翌年になり、先に参照した浅井栄一の報告が2月に発刊され(*42)、その後ヴェネツィアから受賞の報がもたらされるのが1962年7月。その間上記の開催の確認が取れていない3月例会以降の動きはなく、恐らく1962年春頃、「記録映画を見る会」の活動は事実上終息したと推定して良いであろう。この点は以下の事柄によっても推察される。映画祭受賞の時、浅井栄一は住居を大阪府に移していた。上映協約を巡る問題で「記録映画を見る会」の会長、伊吹良太郎(京都府立大学教員)が作品がどのような手続きで映画祭に出品されたか知らず、浅井に手紙や電報で連絡を取ろうとしていると報じられるなど、会の運営体制も実質的に破たんしていたと推察される(*43)。
おそらく終焉は、燃え盛っていた火がわずかな灰――形だけの組織、ほか――を残して消えてしまったかのごとくであったろう。このようなかたちでのほぼ突然の消滅は、裏側には先述のような浅井栄一の苦労もあったのであるが、梯子を外された会員はどのように思っていたのか。前払いした会員券(1961年夏頃は一ヶ月80円、三ヶ月前納だと200円)が何の価値もない紙切れになったわけである。
「記録映画を見る会」が消滅後、しばらくして1964年6月に誕生する「シ・ドキュメンタリー・フィルム」(以下、「シドフ」と略記)は、この間の事情について「記録映画を見る会」は「崩壊と創造の見本を運動のなかで実践した記録のもち主」であり、「シドフ」はその「運動の重みを痛い程知りすぎている」がために「回復には3年余かかりました」と記している(*44)。「シドフ」のあるメンバーは「空手形をつかまされた会員の無念さは、そう簡単には消えることはない」としている。そして、「記録映画を見る会」もそれに関わった団体も、「利潤追求の日常性のみに仮託し、真に記録映画を通じての、世界観の発見者になり得なかった」のは「再生的思考にとどまり、創造的思考に身をおかなかった」からだと批判している(*45)。この批判はやや的外れの感があるが、とりわけ「利潤追求の日常性のみに仮託」という行は会の内状を知らない外部者の観点が強すぎると思われる。
かくして「記録映画を見る会」の崩壊した後、京都市では上述の「シドフ」の活動があり、既に1962年に劇団「現代劇場」を創設していた小松辰男が「芸術の真の『綜合化』」(*46)を追求し出す1960年代後半には、美術家たちも映像制作を手掛けるようになった(早くは例えば、1967年11月の「フィルム67」にて発表されている)。全国的に見れば各地にシネクラブが誕生し、草月アートセンターのプログラムも多様な主催者の手で巡回され、あの「フィルム・アンデパンダン」も1965年6月に京都で上映されている。「記録映画を見る会」の影響のあるなしに拘らず、会の目標としたことが実現していったのである。「記録映画を見る会」以降の状況に関してはまた稿を改めて考察したい。