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謝辞

「記録映画を見る会」について調査を行い、本稿を執筆するに際して、下記の方々/団体のご支援を得ました。記して感謝いたします(順不同/敬称略)。浅井栄一、松本俊夫、坂上しのぶ、植村義夫、西村智弘、放送ライブラリー。

注・引用文献

*1―
浅井栄一[完成した二本の映画――『西陣』をめぐる諸問題――]、「記録映画」、1962年2月、P. 26-29
*2―
紙面からは浅井の関与は看取出来ない。浅井栄一への聞き取り(2009年7月13日)に基づく。
*3―
北村日出夫、木村英生[『末っ子大将』をどう見たか 子供と母親についての調査報告]、「OKレポート 映画と教育」、第2号、1960年8月、P. 3-16
*4―
「眼」、第4号、1959年8月、P. 11
*5―
滝本[学芸 実験映画はどこへゆく]、「京都新聞」、1960年9月15日、5面
*6―
浅井栄一[ある映画サークルの歴史――「京都記録映画を見る会」の場合]、「映画評論」、第18巻第10号、1961年10月、P. 21-30
*7―
『輝け60年代 草月アートセンターの全記録』、「草月アートセンターの記録」刊行委員会、2002年、P. 37
*8―
[おしらせ]、「現代芸術の会会報」、1960年12月、ページ付けなし
*9―
浅井栄一は、親しくなった草月アートセンターの井川宏三が京都の動きに関心を持ってくれたからだと聞き取り調査時に述べている(2009年7月13日)。井川はセンターの発足期の1958年から支配人を務めていた(1964年まで)。詳しくは井川の述懐を参照:『輝け60年代 草月アートセンターの全記録』、「草月アートセンターの記録」刊行委員会、2002年、P. 102-105。他には、大阪労演が草月ミュージック・インの第2回を再演(1960年8月)する旨、「SAC」の第3号(1960年6月)、「製作室」欄で報じられているが、実現したかなどは未確認(大阪労音の可能性あり)。
*10―
[『SACジャーナル』総目次]、『輝け60年代 草月アートセンターの全記録』、「草月アートセンターの記録」刊行委員会、2002年、P. 410-415
*11―
安部公房[新しい綜合芸術への期待]、「SAC」、第1号、1960年3月、ページ付けなし
*12―
『津山昌の眼』、砺波市美術館、2001年、P. 29、P. 115-116
*13―
[SACの会]、「SAC」、第1号、1960年3月、ページ付けなし
*14―
[第1回草月シネマテーク]、「美術手帖」、1961年9月、P. 81
*15―
「日程の順延の原因に『西陣』の完成の遅れがあるのではないか、と推測しても良いかもしれない。「記録映画」誌、1961年5月号には、制作カンパと完成試写会のお願いが掲載され、完成予定は5月中旬、試写会(東京と京都でほぼ同時)は6月中旬と予告されている(P. 41)。これは上記の「SAC」第15号の予告とは矛盾しない。後に見るように実際の完成は6月中旬であることから、シネマテークの開催日を遅らさざるを得なかったのであろう。
*16―
浅井栄一への聞き取り(2009年7月13日)に基づく。
*17―
本稿第1部でしばしば依拠した浅井自身の文章の中で、上映会のプログラム編成の仕方、フィルムの借用方法について述べている行がある(フィルム所有者やフィルムに誰が関心を持つかなどの情報を常々意識して貯えておくことの大事さを主張している)。そこで浅井が例としているのが、第1回「草月シネマテーク」であることも傍証として挙げておきたい。浅井栄一[ある映画サークルの歴史――「京都記録映画を見る会」の場合]、「映画評論」、第18巻第10号、1961年10月、P. 27-28。
*18―
[日本のシネクラブ運動の現状]、「季刊シネマ69」、1969年1月、P. 94
*19―
小野善雄[製作に至るまでのいきさつ]、『記録映画 西陣』、記録映画を見る会、1961年6月25日、ページ付けなし
*20―
そうした情報は東京の教育映画作家協会(後に記録映画作家協会)にも伝えられていて、8月の運営委員会で報告されていた(「教育映画作家協会々報」、第36号、1958年8月27日、ページ付けなし)。それが引き金となり、東京からのニュース映画の取材と完成に至ったことについては、註21を参照されたい。なお、既に本稿第1部で触れておいたが、堀川病院の関係者が西陣の職業病を自分たちで記録映画に収めたい意向を持っていた旨の話題が機関誌に載ったのは、しばし遅れて1959年4月の「眼」、第2号(1959年4月24日、P. 7)であった。ちなみに同じ第1部で「記録映画を見る会」と教育映画作家協会との関係について、「眼」に後者の「記録映画」誌(1958年6月発刊)が紹介され始めたと記したが、その号こそこの第2号であった。さらに逆の動きもあったことをここで追加したい。「記録映画」誌は、その第3号目において、「つくり手と見る側に橋をかけて、興隆をさかんにし映画をよくして行こう」(1958年9月、「編集後記」、P. 38)という意図で「観客のページ」を新設した。そこに掲載されたのが、「記録映画を見る会」の1958年8月例会、「娯楽と通俗性の外にある映画をめぐって・・・」のプログラムの写真と、会のメンバー2人(足立興一と藤原富造)のレポートであった。同号の後のページには、その例会における岩佐氏寿の講演が採録(追加修正後)されている。
*21―
放送ライブラリー(財団法人放送番組センター/横浜市)に所蔵のビデオ版に基づく。なお、註20で見た「教育映画作家協会」の会報に報じられていた「西陣病【ママ】の記録映画制作」に促され、このニュース映画の取材に京都に飛んできた演出家、藤原智子のレポートが「記録映画」誌(1958年12月、P. 37)に掲載されている。藤原は西陣の状況、つまり織り手の働く環境の悪さ、健康や低賃金に注目し、それだけ伝えるだけでニュースの「立派なネタ」になると当初は予想した。しかし、人々のお金で病院が建てられている状況を知り、そこに「昨日から今日、今日から明日へと少しづつ変革してゆく西陣の人々の姿」を目の当りにして驚き、ニュース映画には手に負えないと分かる。今後じっくり調査し、視野を拡げるなら、「その歴史をとらえただけで、未来をつくるもののエネルギーを強く人々に訴える象徴的なものになる」と予想するのである。このようなとかく暗く描かれる西陣の現状の中に、いわばポジティヴな方向を見い出そうとする視点も存在し得たことを証し立てる一文であると評価出来る。
*22―
小野善雄[製作に至るまでのいきさつ]、『記録映画 西陣』、記録映画を見る会、1961年6月25日、ページ付けなし
*23―
以下、浅井の次の文章から引用する。浅井栄一[映画をつくる提案 作品の質をこそ問題としたい]、「眼」、13号、1960年9月、ページ付けなし
*24―
無署名[いわゆる「自主製作」「自主上映」への疑問]、「眼」、13号、1960年9月、ページ付けなし:無署名であるが、おそらく浅井栄一の執筆と推測される。『戦艦ポチョムキン』が示すように映画観客運動がここ1年ばかりで飛躍的発展を遂げた。そうした自主上映の成果の上に自主制作の気運も高まり、作品(例えば『松川事件』や『武器なき闘い』)が作られた。しかし大事な点が忘れられているのではないか、と問題提起する。「作品の質よりも、企業の外で労働者が自主的に『つくる』『みる』ということに、評価が置かれる」のではないか? 「反体制の側でつくるのだから作品に文句をいってはマズイ」という風潮がある、と。これは究極的には「現実変革のための作家自身の論理と文法を喪失」している作家に責任があるとはいえ、「『進歩的』な作家だから、という理由だけで協力してしまう観客団体もダラシナイ」のである。芸術の団体を止めて、いっそ「政治団体」になった方が良いと締めくくる。さらに、上映団体関係者と作家とが議論を行ったある座談会における浅井栄一の発言も参照しておくべきであろう。そこでは上述の趣旨に加えて、再三「現実変革という立場」が強調されている。高倉光夫、山之内重己、桑島達、浅井栄一、大島辰雄、坂斉小一郎、徳永瑞夫、野田真吉、岩佐氏寿[座談会・映画運動を模索する 観客運動と製作運動の接点を求めて]、「記録映画」、1961年1月、P. 23-29
*25―
小野善雄[製作に至るまでのいきさつ]、『記録映画 西陣』、記録映画を見る会、1961年6月25日、ページ付けなし。なお、当初作成された「記録映画「西陣」(三巻)製作計画書」(1960年10月頃?)の中では、制作費総計170万円となっていた。
*26―
チラシ[ぼくたちの映画が出来る/協力券80円]、1961年初頭(?)
*27―
無署名[『伝統』を描く記録映画『西陣』]、「京都日出新聞」、1961年5月21日、2面。および、無署名[今週の話題]、「週刊公論」、1961年8月14日、P. 25。赤字のかなりの部分の負担は浅井栄一に掛かった。なお、後に見る「第二作」への追加出費も計上されている他の報道もあり、真偽の程は不明である(サンケイ新聞〔大阪〕、1962年7月15日、13面)。
*28―
浅井栄一[映画をつくる提案 作品の質をこそ問題としたい]、「眼」、13号、1960年9月、ページ付けなし
*29―
無署名[今週の話題 芸術的すぎた『PR映画』――『西陣』をめぐる製作者とスポンサー――]、「週刊公論」1961年8月14日、P. 25
*30―
「記録映画」(1961年9月)
*31―
滝本[あたらしい「前衛芸術」の動き]、「京都新聞」、1960年12月15日、朝刊、5面、学芸欄
*32―
浅井栄一[完成した二本の映画――『西陣』をめぐる諸問題――]、「記録映画」、1962年2月、P. 28-29
*33―
浅井栄一への聞き取り(2009年7月13日)に基づく。
*34―
『松本俊夫実験映像集』(デックスエンタテインメント/2005年)
*35―
浅井栄一[完成した二本の映画――『西陣』をめぐる諸問題――]、「記録映画」、1962年2月、P. 29。なお、後の新聞報道によればそれは1962年3月8日に「記録映画を見る会」、京都市、西陣関係者とで「第一作保管協約書」を交換したとある。それは上記の上映範囲の制限に加え、事前許可を取ること、さらに協約違反の場合はフィルム没収という内容であったらしい。
*36―
「サンケイ新聞(大阪)」、1962年7月15日、13面
*37―
浅井栄一への聞き取り(2009年7月13日)に基づく。
*38―
松本俊夫[草月アートセンターという文化装置]、『輝け60年代 草月アートセンターの全記録』、「草月アートセンターの記録」刊行委員会、2002年、P. 216
*39―
浅井栄一[賞とプロデュース]、「AAP LETTER」、1992年6月、株式会社エー・エー・ピー、P. 8
*40―
前者は次に述べる「theme|音楽」チラシに記載。後者は「ドキュメンタリー通信」、「記録映画」1962年3月、P. 41。実際に開催されたかは未詳。
*41―
浅井栄一への聞き取り(2009年7月13日)に基づく。
*42―
浅井栄一[完成した二本の映画――『西陣』をめぐる諸問題――]、「記録映画」、1962年2月、P. 26-29
*43―
「サンケイ新聞(東京)」、1962年7月9日、2面。および、「サンケイ新聞(大阪)」、1962年7月15日、13面
*44―
[日本のシネクラブ運動の現状 京都・シ・ドキュメンタリー・フィルム]、「シネマ69」、1969年1月、P. 94
*45―
久保田堅太郎[シ・ドキュメンタリー・フィルムの動向と課題]、「映像芸術」、1965年3月、映像芸術の会、P. 56-59
*46―
太田代志朗[春の修羅――小松辰男序説]、『夢は荒野を――小松辰男追悼集』、小松辰男追悼編集委員会編、1987年、P. 331
*47―
相馬大[子供の詩から見た西陣]、『記録映画 西陣』、記録映画を見る会、1961年6月25日、ページ付けなし
*48―
これに関してはメイエルホリドなどのロシア・アヴァンギャルドの影響を看取出来るかとも思われるが、その点の究明は将来の課題としておきたい。
*49―
浅井栄一[完成した二本の映画――『西陣』をめぐる諸問題――]、「記録映画」、1962年2月、P. 26-29。なお、映画『西陣』を利用するカタチでグラフ雑誌などが西陣を紹介することがあった。例えば、[記録映画に見る西陣 その華やかな彩りの裏側は…]、「国際写真情報」、1961年9月30日、P. 58-59。あるいは、[日本のカルテ44 哀愁の中に閉塞する西陣]、「週刊文春」、1961年11月6日、P. 52-58、63。

 

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