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3 「記録映画を見る会」:その終焉

本稿に対して課した課題の1つ、つまり、これまで『西陣』を巡る顛末のみが知られていた「記録映画を見る会」の活動の全体的足跡を辿ることは(不完全ながらも)何とか成し遂げることが出来たように思う。他方、「記録映画を見る会」の意義を見い出すこと、とりわけ、現在の映像文化に対するどのような知見を引き出すことが出来るのであろうか? 最後にこの問題について考えておきたい。

会の当初からの理念の背景に存在したのは「生活記録運動」(本稿第1部「まとめ」参照)であった。会の中心的人物であった浅井栄一は、「記録映画を見る会」を「映画を通じて現代を考える運動」であるとみなしていた。一方、「生活記録運動」はそれ自体が自我が軸となっているため一般化への限界がある。したがって、「自我を軸としないで客観的世界を軸とする思想展開の方法を、もう一つの軸として持つことが必要」となる。

脚本担当の詩人、関根弘も参照したという西陣の中学生の詩が『西陣』のカタログに掲載されている。『金がほしい』は夜遅くまで織物を織る父についての詩で、そうやって苦労の末に得たお金もすぐになくなっていく。この詩を含む一文を掲載した中学校教員は「西陣は日本そのものの縮図」と見て、記録映画『西陣』ヘの期待を、「如実の西陣の姿を客観化し、明日への緒を発見させてもらいたい」と述べる。それはとりわけ子どもたちに対してであると結んでいる(*47)。『西陣』の制作後においてもなお「記録映画を見る会」の「生活記録運動」との結び付きを示す事例として記憶しておきたい。

時間が前後するが、「記録映画を見る会」の蓄積の結果、例えば浅井がアラン・レネの『ゲルニカ』に記録すべき現実の変革とは違う、映画それ自体が生み出す変革を看取するまでに認識が深まっていた。ある意味で素朴な「客観」ではもはや立ち行かない事態となったのである。会の発足時からの宿願であった「作る」が、レネの同じ作品に刺激を受けて「前衛記録映画論」を打ち出した松本俊夫の演出によったことは偶然ではない。だが、『西陣』が完成後先述のような経緯を辿ったことも事実である。現実の生活世界の存在はそれ程にも大きいのである。

「記録映画を見る会」は「見る」と「作る」を同時に志向し、広範囲な人々を巻き込んだ文化運動であった。本論第1部で指摘したようにこの点については様々な組織だけでなく、京都の文化人/知識人の関わりが大きかった。そして単なる映画観賞会ではない、「劇場芸術」が追求された(*48)(具体的にはプログラム編成において、こうした理念が実現化される)。先にこのような姿を「批評的な編集行為」と呼んでおいた。本稿のまとめとして、それをさらに敷衍しつつ、「記録映画を見る会」とは編集活動としての文化運動を目指した、と総括しておきたい。もちろん既に述べた草月アートセンターとの共同作業もこの文脈で評価されるべきである。諸ジャンルの「綜合化」についても同じであろう。

この視点からは映画作品『西陣』も広範な運動のうねりを形成する構成要素の1つでしかない。それと並んで他の多くの動因が関係しているのである。先に言及した「西陣委員会」1961年10月19日付け文書には、委員会から市や西陣業界への提案が書かれている。『西陣』の上映が業界や市にとっても優れた宣伝の機会になり得ること、そして上映の際に業界や市の主張や現実的な西陣を紹介する文や写真を入れたパンフレットを配布する用意があることが示されている。「双方の原則的な主張がハッキリと広場に持ちだされ、たがいに封殺しあうことなしに、ぶつかる」ようにしたいと訴えている(*49)。市や業界をなだめるために一時しのぎという面もあるかもしれないが、この提案からは編集活動としての文化運動であった「記録映画を見る会」の意義を確認出来る。記録映画という1つのジャンルから発しているのであるが、この文化運動の行き着く先には、新しい映像文化の創出となるであろう。さらにそれは文化の映像的側面に留まらず、社会と生活をも含み込む文化全般の革新へとつながることが可能であろうし、つなげなければならなかったのである。

今日、状況はもはや「運動」そのものが成立しないように思われる。それぞれの動きは存在するのであるが、全体としては(既にこの「全体」というものですら見渡せることが出来なくなっているようであるが)ランダムな「ブラウン運動」でしかない。となると、行うべきは個々バラバラな動きをまとめるということではなく、例えば1つ1つに状況に応じて柔軟にリンクを張る(あるいは、切る)というような、相互関係付けとしての編集的な活動になるであろう。現代の社会と生活の未曾有の変革期において、新しい映像文化に向けての編集的活動の姿を描こうとする時には、運動のあり方の相違を越えて、その究極の志向という点に関して「記録映画を見る会」の仕事を振り返ることが何度も要請されるといえよう。


 

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相馬大[子供の詩から見た西陣]、『記録映画 西陣』、記録映画を見る会、1961年6月25日、ページ付けなし
これに関してはメイエルホリドなどのロシア・アヴァンギャルドの影響を看取出来るかとも思われるが、その点の究明は将来の課題としておきたい。
浅井栄一[完成した二本の映画――『西陣』をめぐる諸問題――]、「記録映画」、1962年02月、P. 26-29。なお、映画『西陣』を利用するカタチでグラフ雑誌などが西陣を紹介することがあった。例えば、[記録映画に見る西陣 その華やかな彩りの裏側は…]、「国際写真情報」、1961年9月30日、P. 58-59。あるいは、[日本のカルテ44 哀愁の中に閉塞する西陣]、「週刊文春」、1961年11月6日、P. 52-58、63。