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写真2 「記録映画を見る会」第1回例会チラシ表面(2つ折/大きさ:70×141mm)

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写真2 「記録映画を見る会」第1回例会チラシ表面(2つ折/大きさ:70×141mm)


写真3 「記録映画を見る会」第1回例会チラシ裏面(2つ折/大きさ:70×141mm)

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写真3 「記録映画を見る会」第1回例会チラシ裏面(2つ折/大きさ:70×141mm)


写真4 「記録映画を見る会」第1回例会ポスター(大きさ:544×382mm)

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写真4 「記録映画を見る会」第1回例会ポスター(大きさ:544×382mm)


写真5 「記録映画を見る会」第2回例会チラシ(2つ折/大きさ:70×142mm)

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写真5 「記録映画を見る会」第2回例会チラシ(2つ折/大きさ:70×142mm)

2-2 会の立ち上げ

上記のような運動方針はどのような形で実際の会員獲得や上映会開催にあたって具体化されたのであろうか。広報に使われた宣材を見てみたい。第1回上映会を告知する小型の2ツ折のチラシの表紙には「事実のドラマや事実の叙事詩を迫真的な感動をもって描く 記録映画を見よう!」と、「私たちの生活や問題を 私たち自身の手で 映画にする製作運動をおこそう!」とが掲載されている(写真2、3、ちなみにポスターにはやや簡略化されているが同文とともに、「毎月の例会ごとに各方面の専門家をむかえて講演をしていただく計画です」とある。写真4)。裏面には、会員の毎月1回の無料招待、座談会や講演会の実施、制作活動への参加依頼などに加え、「学校や職場、その他のグループでまとめて入会してもらった処からは、代表者を選んでもらって代表者会議を構成して、会の企画や運営に参加していただきます」という文章が記載されている。「記録映画を見る会」における会員の関わり方には独自なものがあったと評価できるが、これもその一例であろう。会費は月40円、3ヶ月前納で100円であった(「記録映画を見る会」の企画常任委員であった小野善雄は「実に安いものだった」と記している〔*9〕。先述の京都市の「市民映画教室」選定作品の場合、封切り料金150円が前売80円に割り引きであったし、当時の一般映画館の平均入場料金は63円という計算がある〔*10〕)。

以上のスローガン的文言は若干の修正が加えられ一時的な不使用の時期があったのではあるが、ほぼそのまま長期間使われた(手持ち資料では1959年12月例会分でも確認できる)。この点から「記録映画を見る会」の基本方針が当初からよく練られていて、また活動を継続する中でも維持されていたと指摘することはできよう。第2回と第3回例会のチラシには、「生活に結びついた記録映画を みんなが手軽に利用できる フィルムライブラリーを作ろう!」という提案も掲載されている(写真5)。あるいは、小野善雄の自負、「ライブラリーのない空白を埋める仕事」(*11)も想起すべきであろう。当時地方自治体にそれなりのフィルム・ライブラリーが整備されつつあり、期待を持たせるようではあったが、後年判明するようにそれではなお十分ではなかった(*12)

第1回例会に向けての活動が実際どのようなものであったかは明らかになっていない。先に見たポスターや小型のチラシを活用しながら、「記録映画を見る会」が組織論的に重視していた直接的な口伝えによるコミュニケーションが行われたのであろう。プログラム構成の際のフィルムの選定や借用も厄介であったと想像される。浅井は本稿で何度も引用している文章でその辺の事情を詳しく書いている。専門の配給会社、制作会社、公共団体のフィルム・ライブラリーや各国大使館、さらには、スポンサー(PR映画)、特定の団体や個人と幅が広い。商業映画の興行はかなり閉鎖的であったが、自主上映に関しては困難であるとはいえこのように道は多々あった。必要なのは面倒をいとわない熱意ということになるが、それだけではない。要点は平常から注意を怠らず、どこにどのような作品があるかをよく把握しておくことである。浅井たちが「記録映画を見る会」を立ち上げた遠因の1つに、そうしたリストを持ちフィルム調達に関してある程度の目算があったからではないかと推察できる。

かくして1955年5月30日、18時からヤサカ会館を会場として、『蚊』(1954年)、『真空の世界』(1953年)、『谷間の歴史』(1954年)、『月の輪古墳』(1954年)ほか1本が上映された。いずれも当時話題になった作品である。ゲストに迎えられた吉見泰は『月の輪古墳』の構成(脚本)担当であった。例会に専門家を呼び講演をしてもらう計画が実行されたのである。この作品は「郷土の歴史を科学的に解明しようとする村民の姿を通し、民主的な文化運動のあり方や、史跡や文化財の重要さを説いた最初の啓蒙的秀作」(*13)と評されたように、相当有名になったものである。それを文部省は日本の歴史への冒涜と見て選定を拒否していたのであった。

「記録映画を見る会」が誕生する時期の京都市における映画状況は先に概観したが、ここで追加すべきはある種の記録映画ブームであろう(小野善雄の述懐)。ディズニー最初の長篇記録映画、『砂漠は生きている』(1953年。国内公開は1955年)やその他の作品が人気となっていた(*14)。また大形館の「SY京映」では「第1回文化映画を観る会」が1955年4月4日、午前10時から開催されている(*15)。「記録映画を見る会」の誕生にはそうした時流に乗りつつ、同時にそれへの批判も込められていたのではないかと推察できる。後の第7回例会(1955年12月1日)のパンフレットには記録映画が一般的になったことを喜びながらも、商業的な記録映画が「驚異的な世界」への興味に終始している。人間生活に身近な問題を扱ったものは商業機構から敬遠されているから、会で上映し「片よった記録映画に対する考えを訂正してゆくようにしたい」と書かれている(*16)。ここにも「記録映画を見る会」の主張が表れている。


 

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小野善雄[映画運動1959 京都記録映画を見る会の今日]、「記録映画」、第2巻第11号、1959年11月、P. 6-8。以下、小野善雄文章から引用の際、特記以外はこの文章なのであえて註記しない。
「社団法人日本映画製作者連盟」のサイト参照:http://www.eiren.org/toukei/data.html
小野善雄[現代の映画の会 新しい映画運動のための提案 『二十四時間の情事』]、「眼」、第4号、1959年8月、P.11-12。ちなみにいえば国立近代美術館(東京)はその1952年12月の開設から小規模ながらフィルム・ライブラリーを兼備していた。フィルム・ライブラリーについては、第3章第4節でも追記する。
田中純一郎[日本教育映画発達史]蝸牛社、1979年、P. 225、273、309-310
田中純一郎、同上書、P. 216
田中純一郎[日本映画発達史 IV]中央公論社、1980年、P. 226-227
「京都新聞」(1955年4月24日夕刊)
無署名[事務局だより]、「記録映画を見る会 第7回例会パンフレット」、1955年12月1日