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写真10 連続講座パンフレット表紙、1958年8月7日(大きさ:187×130mm)

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写真10 連続講座パンフレット表紙、1958年8月7日(大きさ:187×130mm)


写真11 連続講座パンフレット、1958年8月7日(大きさ:187×255mm)

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写真11 連続講座パンフレット、1958年8月7日(大きさ:187×255mm)


写真12 「記録映画を見る会」例会パンフレット、1959年3月27日表面(大きさ:81×257mm)

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写真12 「記録映画を見る会」例会パンフレット、1959年3月27日表面(大きさ:81×257mm)


写真13 「記録映画を見る会」機関誌「眼」、創刊号、1958年10月頃(大きさ:260×186mm)

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写真13 「記録映画を見る会」機関誌「眼」、創刊号、1958年10月頃(大きさ:260×186mm)

3-4 第3期 多様な展開の試み

 会員の多様な趣向を満足させることも理由の1つであったろうが、それよりもジャンルを問わず日の目を見ない作品を紹介したいという思いが強い故に、例会とは別の特別例会が第1期から数多く開催されていたことは既に触れた。たとえば第1回の例会後すぐに「6月懇談会」という形でロバート・フラハティの『ルイジアナ物語』が上映された。1955年10月には小規模の(会場の都合で100人)「岩田宗之介氏製作の映画と話」という会合が持たれ、大学研究者の協力を得て行った野猿の餌付け実験を扱ったアマチュア作家制作作品が紹介された。その後折に触れて特別例会が開催されてきた。

そのような経緯を踏まえ、第3期は1958年8月の3日間連続の「ゼミナール」という従来にないやり方で幕を開けた。その名称は「娯楽と通俗性の外にある映画をめぐって……」となっていて、極めて挑発的であった(会費は3日間通しで200円、写真10、11)。初日8月1日は講師に本稿前段で名前の出てきた岩佐氏寿を迎え、3本映写。翌2日は小説家の安部公房が講師で、既に第2回例会で紹介済の『教室の子供たち』を含む羽仁進作品集。最終日の8月3日は評論家の花田清輝が招かれ3本の作品が上映された。これらの人選と最終日のルイス・ブニュエルの作品『忘れられた人々』(1950年)は「記録映画を見る会」のそれまでの主張を確認するだけでなく、新しい局面をも示すものであった。

その辺りをまずは小野善雄の視点で辿りたい。小野にとっても良い映画、優れた作品を上映できないことで会員の支持を失うのが悩みの種であった。しかし「記録映画を見る会」の推進力の一つとなっているのは、「会の出発当初から既に存在し会の成長と共に発展してきたところの映画における商業主義に対する抵抗の意識」と再確認する。3日続きの講座は観客動員の面から見れば成功とはいえなかったが、「やや異質な面を打出したということに意味があった」。曖昧な表現であるが、このような「記録映画を見る会」の意識を従来の例会ではあらわにしていなかったがこの連続講座でははっきりと打ち出した、と読み取れるのではないか。一方連日1,000人を超えた観客が集まったとする浅井栄一はこうした小野の評価を共有するとともに、別な意義を看取している。花田が当時「記録芸術の会」を主宰していたことも関係していると想像されるが、浅井は「記録」ということを映画だけに閉ざしてしまうのではなく、「芸術による変革を目的とした芸術運動全体の方向のうえから、あらたに記録精神について考えるキッカケ」になったと述べる。映画とともに芸術全体を視野に入れるべきとの思考と解釈できるが、実際にこれ以後の「記録映画を見る会」の活動は記録映画に留まらず、個人/実験映画などにも範囲を拡げ(「日本映画ゼミナール」や「実験映画ゼミナール」、後には「現代の映画の会」)、他の芸術諸領域との後日の連携(たとえば、草月アート・センターと共同した「現代芸術の会」は1960年1月に第1号の会報を発刊する)にもつながるのである。

やがて1958年10月例会が復活したが、小野によれば「閑散たる観客席」で「興行的に失敗」であった。1959年11月から月例になるまでは2ヶ月に1回であった。他方、京都府立医大の「記録映画の会」も続けられていて会員は無料で見ることができた。そのため本家たる「記録映画を見る会」の例会では違った傾向の作品を選ぶ必要があり、「いきおい前衛的な作品や豪華な感じを与えるような作品(一回分の会費五十円にしては)がとり上げられるようになってきた」。前者の例ではアラン・レネの未上映作品、あるいは1959年3月例会時のカナダのアニメーション作家、ノーマン・マクラレンの作品3本と日本のグループ「シネマ58同人」(勅使河原宏や羽仁進、ほか)の『東京1958』との併映などを特記すべきであろう(写真12)。後者の例は富士山の長篇記録映画『富士』(1958年。1959年8月例会)など。最後に小野善雄は『戦艦ポチョムキン』こそ両方の側面を兼備したものと評価する。

しかし実験的な作品は会員の支持を得ることが困難であるので、「実験映画ゼミナール」として例会とは別に設定された。この例としてはアメリカ出身で日本に在住し早くから個人映画を制作していたドナルド・リチーを招待し、個展を開催していることが注目される(1958年10月。ただし正確な日付けと開催場所は未詳)。同じくいわば特化した内容を持ったものとして日本映画を対象にした「日本映画ゼミナール」が3回開催された(増村保造や加藤泰をとり上げた後、3回目は亀井文夫特集であった)。1959年6月の特別例会は「商業主義とたたかう記録映画作家たち」として開催された(京都大学楽友会館)。当時新進の映像作家であった松本俊夫を呼びその『春を呼ぶ子ら』(1959年)やレネの『ゲルニカ』などを上映し、また観客との交流を持った。同年8月にはあの3日間連続講座の続きとも思える6日間の講座「現代の眼」が開催された(ヤサカ会館)。病気、金銭、笑い、冒険などをテーマとし、講演と映画を一まとめにしたもの。講師は医師、評論家(佐藤忠男)、小説家(安部公房)、学者(梅棹忠夫、加藤秀俊)らであり、作品もニュース映画から谷川岳の記録映画、そしてチャップリン映画や『結婚のすべて』(監督:岡本喜八、1958年)など広範囲に渡っている(後で言及する機関誌「眼」第4号が一種のカタログのようになっている)。

これらのいわば分科会的な催しは、小野善雄によれば「記録映画を見る会」の「前衛的な性格を明確にする上での意義があった」わけで、それこそ8月の連続講座に関して小野が確認した「記録映画を見る会」の意識、つまり「商業主義に対する抵抗の意識」の発露といえるであろう。したがって例会に加えてのこの種の会の開催は経費的な負担となり廃止されることになったのであるが(*21)、他方これらの会はやはり何らかの形で存在すべきと判断された結果、1959年9月頃赤字を出さないように「記録映画を見る会」とは別立ての会員組織による「現代の映画の会」が立ち上がった。会費は半年500円であり、事務局の試算では150人の会員で健全運営が可能とのことであった(*22)。ポーランドの実験映画、学生映画特集(日本大学映研の『釘と靴下の対話』〔1958年〕ほか)、アラン・レネ『二十四時間の情事』〔1959年〕、そして2度目のマクラレン作品集などが紹介された。一部はこうした場での紹介の後、「記録映画を見る会」自体の例会で上映されたという。

やがて1960年頃にこれらの別系統の会合は「記録映画を見る会」の例会に一本化された。

ここでこの第3期でその他の特筆すべき活動について簡単に触れておく。それが機関誌「眼」の発刊である。奥商会という記録映画の制作・配給会社との共同発行で創刊号が出された(雑誌に書誌データがなく正確な日付けは分からないが、恐らく1958年10月頃であろう)。B5版で8ページながら以前のガリ版の会報と違い活版印刷であり紙質も良いものであった(写真13)。つまり会報の拡張である。その理由は受け手の組織を作るためには採算と会員の広がりを必要とするが、それには問題を提起し「その方法と理論で追求する機関紙が必要」という認識であった(*23)

「眼」創刊号には「記録映画を見る会」の独自性を看取できる記事がある。当時京都大学人文科学研究所の所員であった社会学者の加藤秀俊が書いた挑発的な小文、「労映はプレイ・ガイドでよいのか」である。「記録映画を見る会」の設立理念をあえて打ち出した1つの例といえる。戦後の労働者の芸術運動を「あたらしいスタイルの芸術観賞法をつくりあげた」と見なし、勤労者音楽協議会(労音)や勤労者演劇協議会(労演)が自分たちの見たい作品を自主的に制作するような仕方で「観客組織としての文化運動」となっていることを評価する。他方労働組合映画協議会(労映)は、たとえば「見なおし」がきかないことや記録映画の上映が少ないといった映画に特有の「悲劇」には眼をつぶったままである。「見る映画の自主的な管理を少しもしていない」わけで、結局入場料の割り引きをするだけである。さらに加藤は労映に割り引き制度を止め集めた資金を注ぎ込んで映画館を借りる契約を結び、そこで自主的に選んだ作品を上映する、という提案を行っている。ちなみに編集者の「E」(浅井栄一と思われる)は機関誌次号に、この加藤文章に関する意見を多数もらったが肝心の労映からは反論すらなく、労映事務局長の「(森下註:労映という)十二万名の団体が一々相手になっていられない」との返事を伝えている(*24)。労映が創造的な仕事ができないのは「論争を頭から拒否する官僚性が創造的想像性を一切失わしてしまった」と批判している。

他には文部省により非選定映画となった『どこかで春が』(1958年)に関するものがある。論考や演出家の立場からの文章とともに、前述の加藤秀俊や多田道太郎、樋口謹一など京都大学人文科学研究所のそうそうたるメンバーを集めての座談会記録が掲載されている。この座談会に集まった多様な専門の学者の顔ぶれがすごい。これはしばしばいわれることであるが、京都における研究者や知識人の人的なつながりの面白さの反映であろう。異領域の優れた人々が分野を超えてつながりを持つこと――「記録映画を見る会」もそういった人的なネットワークを活用し、あるいは自ら切り開いてきたのではないか(本論第2部で見るように『西陣』制作と上映の際にもそれが活用されている)? 他に全国的な連携に関しては次節で検討することのほか、次がある。例会が既に1955年7月の第3回から協賛を得ていた記録映画作家の団体、教育映画作家協会が1958年6月から刊行を始めた「記録映画」誌の紹介である(1959年4月の第2号から開始)。これは作り手との協同という意味合いもある。

未だ全冊見ることができないでいるが、少なくとも18号発行された機関誌「眼」にはその他にも興味深い文章が散見される。第3号(1959年6月)では「社会教育映画特集」として大阪大衆芸術の会会員による座談会記録、京都府立医大の「記録映画の会」を企画している足立興一が書いた科学映画と知ることの関連を考察した一文などが掲載されている。さらに「ぐ・る・う・ぷ」という欄があり、職場や団体の動向が報告されている。後の第4期で自主制作される『西陣』の舞台となった地域における職業病対策に取り組む堀川病院のことも既に第2号で報じられていた。


 

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小野善雄[現代の映画の会 新しい映画運動のための提案 『二十四時間の情事』](「眼」、第4号、1959年8月、P. 11)によれば、これらのゼミは観客の集まりが悪く、講師招聘費用やフィルムやフィルム貸し出し料金もあり、50円という会費設定が元々無理で、多い時では10,000円、少ない時でも3,000円の赤字を重ねていったという。例会すら赤字なのだからこれらの特別例会は打切らざるを得ない。
小野善雄、同上文章
浅井【栄一】[経過報告 発行にいたるまで]、「眼」、第1号、1958年10月頃、P. 8
(E)【森下註:浅井栄一と見なす】[創造的想像力]、「眼」、第2号、1959年4月、P. 4。浅井栄一は2007年12月10日に行った聞き取り調査でこの小論が「インパクトがあった」と語っている。