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写真9 「記録映画の会」第25回パンフレット、1959年7月7日(大きさ:249×90mm)

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写真9 「記録映画の会」第25回パンフレット、1959年7月7日(大きさ:249×90mm)

3-3 第2期

続く第2期は第14回例会を期にヤサカ会館という大ホールでの上映が一時中止された1956年6月から始まる。小規模な例会や特別例会は継続され、他方学校や職場において上映会を組織し、あるいは支援するという運動が活発化していった時期でもある(1956年6月、小型の16ミリ映写機を月賦で購入している〔*18〕)。そのようなやり方の出現の一因が先述したような、会の発展に伴い例会だけではあきたらない新しい熱心な支持者の活動にある。自らの生活の現場で小規模の映画会を企画し、実施し始めた。そうした方法が「ぼくたちのテーマを実践してゆくためには、一層ふさわしいと考えた」浅井は、学校や職場などへの移動映写会を行っていく。一番盛んな時には毎月二十数カ所で上映会を開催したという。先ほど4つの時期設定は緩やかなものであると断わったが、移動映写を含む多様な活動は既に第1期にも行われていた(*19)。1956年2月の活動の実態を見てみよう。まずは月毎の例会(2月28日)があり、会の運営や例会作品の選定などが討議されたであろう運営委員会が1回(2月24日)。移動映写としては職場で1回、学校については3校で6回。さらに教育に記録映画を取入れている7つの学校の教員と市教育委員会の担当者とで映画会を伴った懇談会が開催され、会の発展を巡って活発に発言が交わされた(2月15日)。浅井は映写機を肩にかついで出かけていったことについて、「映画を媒体にして考えあうことであり、仲間をつくること」であったと述べている。

このような移動映写の一方で例会は小会場での開催となっていたが、小野はそれについてやや懐疑的な評価「小さな会場での不便な形での上映は益々会員の支持を失っていく」を残している。

以上のような分散型の上映会の中で規模も大きく長期に渡って継続したのは、京都府立医科大学の教職員を中心に構成された組織が運営していた「記録映画の会」である。「記録映画の会」は1956年7月その第1回を開催し、以後ほぼ毎月の定期上映会を開催していった。会場は大学内の記念ホールで収容人数は800人(*20)。科学映画を中心としたプログラム編成や上映プリントの確保については「記録映画を見る会」の助力があったと推察される。従来の研究ではこれら両者が名称の故にか同一視されたりしていた。また次に見るように、一方が他方に吸収されていた経緯もあって紛らわしい。いずれにしろ両者は別物ではあるが、密接な関係を持っていた。京都府立医大のその第25回のチラシ(プログラムか?)には「暮しをゆたかに するための 記録映画を お友だちや 家族のかたに おすすめください」とのキャッチフレーズが記載されている(写真9)。このチラシは「記録映画を見る会」第9回例会のチラシにデザイン的に告示しているだけでなく、このキャッチフレーズそのものが同一である(ちなみに会費は40円であった。その頃には「記録映画を見る会」の会費は半年で150円に入会金50円を加えて200円。1ヶ月の臨時会員は80円となっていた)。

両者の関係はやがて1956年12月より「記録映画を見る会」の例会が京都府立医大の「記録映画の会」例会に吸収されるという形に変化する。「記録映画を見る会」の会員は「記録映画の会」例会に招待されることになる。この時期特筆すべき作品としては、府立医大としては異色といえる『流血の記録 砂川』(1957年)や『世界は恐怖する――死の灰の正体――』(演出:亀井文夫、1957年)であり、十八番の科学映画なら『ミクロの世界』(1958年)などが挙げられるであろう。いずれも完成後時を置かずに上映されている。

これ以後1958年10月の「記録映画を見る会」例会復活までは会の活動を具体的に裏付ける資料が現在までのところ未入手であり、前述のような訪問上映会と「記録映画の会」例会が主であったと推察せざるを得ない。


 

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浅井栄一(*3)と同じ文章
「会報」、第3号、1956年3月20日(第11回例会時に発行)
浅井栄一(*3)と同じ文章