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写真6 「記録映画を見る会」会報、第4回例会、1955年8月(大きさ:255×180mm)

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写真6 「記録映画を見る会」会報、第4回例会、1955年8月(大きさ:255×180mm)


写真7 「記録映画を見る会」会報、第9回例会、1956年1月(大きさ:255×180mm)

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写真7 「記録映画を見る会」会報、第9回例会、1956年1月(大きさ:255×180mm)


写真8 「記録映画を見る会」会報、第9回例会、1956年1月(大きさ:255×180mm)

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写真8 「記録映画を見る会」会報、第9回例会、1956年1月(大きさ:255×180mm)

3-2 第1期

何事も物事の発端の時期は全てが快調に発展を遂げていく。「記録映画を見る会」の第1期もそうであった。会場のヤサカ会館は1,000人以上の収容であり、既述のように安価に借用できたとはいえ(*4)、経費的にも大人数を動員しなければならなかった。そうではあっても「記録映画を見る会」の意気込みが多数の観客を呼び込んだであろうし、観客の側にも例会に期待するところが大であったと推察される。浅井によれば、第1回例会時に700人であった会員数が2回目に900人、3回目には1,000人に伸びていったという。例会を重ねるにしたがい「労働者、教員、学生、主婦といった、それらの活動家」という新しい熱心な支持者が出現した。

例会毎の作品リストを見ていく時、当時既に評判となっていたものに加え、評価の定まらない作品が少なくないのに気付かされる。1955年9月特別例会で上映したヨリス・イヴェンスの『世界の河は一つの歌を歌う』(1954年)は、浅井が述べているようにいわば作品の発見の一例であろう(*17)

毎月1回の例会と補完的な特別例会を数度開催していたこの時期に紹介された作品の中で浅井も小野も言及しているのが、第4回例会での『ゲルニカ』(1950年)とロバート・フラハティの『北地のナヌーク』(1922年。現在では『極北のナヌーク』と呼ばれている、第9回例会)であった。どちらも歴史的名作であるがここでは前者を取り上げたい。浅井は『ゲルニカ』について生活記録とは違う方向、つまり「前衛的な作品の発掘と上映という仕事の意識が、萌芽的な形で示された最初の作品であり、映画そのものによる変革のイメージについて考えさせられた」と回想している。自ら組織した上映会により出発点に置かれた生活記録に加える形で記録映画が持っている可能性に気付いたわけであり、いわば現場修行といえる。この可能性は以後様々な形で追求されていくようになる。小野もこの作品を高く評価し、「このような映画を観るチャンスが得られるという楽しみ或いは期待が、引続く沈滞期において私を記録映画を見る会から離れさせない理由の一つとなった」と述懐している。

単に普段見られない映画を見るだけでは未だ不十分であろう。上映会には講師の講演も付随していたが、さらに作品解説を掲載した「会報」も発行されていた。現在調査の結果判明している一番古いものは1955年8月の第4回例会時のものである(B5版、4ページ、ガリ版印刷、写真6)。それが翌年1月第9回例会になると、解説も作品の制作者などそれなりの人物が署名入りで書くように変わっている。前述した『北地のナヌーク』の監督のフラハティについては映画制作者の加納龍一が、前回上映された『一人の母の記録』(当時、その演出方法が議論の的となった)については脚本担当の岩佐氏寿がそれぞれ筆を執っている。前回上映作品をめぐっての女性会員の感想文、そしてアンケートの結果をも記載している(写真7、8)。「毎月アンケートを書かすばかりでなく発表してほしい」という前回の時に出た意見に従い、早速実行に移したという。私たちにとって興味深いのはまずアンケートの数である。1955年12月例会(第8回)の総数は219枚で、それ以前の2回の例会より少ないとされている。それぞれの作品についてはここで詳述は不要と思われるが、やはり『一人の母の記録』を大変良かったとするのが75%程で162名であった。職業に関しては多様で会社員が一番多く約3割の66名。次に大学生58名、官公吏23名、中学生23名、教員17名、主婦5名、医師3名、その他36名であった。中学生が多いのは教員が教え子を連れて来るからであると説明している(後述するように学校や職場への出張上映が始ったのは熱心な観客の存在故であるが、このような観客層の数字はそのことを傍証しているようである)。医者が特記されているのは「記録映画を見る会」の活動に医師が関係を持っていたことの証であろうか?

小野はこの第1期においても、第9回例会(1956年1月)辺りを境に当初の順調さがやがて翳りを見せ始めたと書いている。観客数の減少や経済的な困難が生じ「情勢が悪化の道を辿り始めた」。小野は分析の論点として、地味な記録映画ではどう頑張っても観客数は限られること、音楽や演劇のように豪華なイメージを与えられないこと、さらに例会期日が1日だけで他の日を選択できないことを挙げている。加えて優れた作品が段々と上映されなくなったこともあると見ている(これについては、作品の質の低下が日本の記録映画制作界の問題であるとも述べているが)。つまり第1期後半は小野によれば「沈滞期」なのであった。


 

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浅井栄一は筆者による聞き取り調査(2007年12月10日)と私信(2008年6月18日)において、演劇観賞団体を主宰していた在野の有識者、藤木正治が浅井が記録映画へと開眼するきっかけを作り、生活記録に関しても影響を受けたと述べている。当時は演劇上演や音楽演奏の貸し館となっていたヤサカ会館(勤労者音楽協議会〔「労音」〕や勤労者演劇協議会〔「労演」〕などがよく利用していた)の空き時間に安く借用できるように話をつけたのも藤木であった。ちなみに藤木正治は後段で言及する「記録映画を見る会」が初期に発行していた会報の発行者として名前が残っている(たとえば、「記録映画を見る会 会報」、第3号、〔第11回 記録映画を見る会 特集 京都の文化遺産〕、1956年03月20日)。「記録映画を見る会」の発足とその初期における藤木正治の貢献については、調査は以上に留まっている。
「記録映画を見る会」機関誌「眼」10号(1960年6月)によれば、1960年に全国自主上映促進会(と書かれているが、正しくは「自主上映促進会全国協議会」)の手で『戦艦ポチョムキン』に次ぐ巡回上映作品となり、再び京都で上映されたという。