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写真14 『戦艦ポチョムキン』上映カタログ、1959年4月(大きさ:183×269mm)

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写真14 『戦艦ポチョムキン』上映カタログ、1959年4月(大きさ:183×269mm)


写真15 「記録映画を見る会」例会パンフレット、1959年3月27日裏面(大きさ:81×257mm)

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写真15 「記録映画を見る会」例会パンフレット、1959年3月27日裏面(大きさ:81×257mm)

3-5 第3期 『戦艦ポチョムキン』上映運動

 「記録映画を見る会」の活動第3期の象徴的な運動について概観したい。映画史の大傑作といわれるこの作品『戦艦ポチョムキン』は戦前はおろか戦後も多くの障害(ほとんど人為的な)により、この国での公開が阻まれきた。既に1956年頃から輸入・上映の運動が起こっていて、「記録映画を見る会」1958年9月の例会で一度上映を企画したものの実現できなかった(機関誌「眼」創刊号で上映中止の経緯とその後の見通しが報告されている)。その後紆余曲折を経て、政府や大手映画配給会社の強固な壁をくぐり抜け「寄贈プリントによる非劇場自主公開」という形で、1959年2月21日(横浜)を皮切りに6月末までに全国上映を行い、22万人以上の観客を動員する結果となった(*25)。日本の映画史に残る出来事となったのである。「記録映画を見る会」も京都市での上映に関して他団体(京都映画サークル協議会やかって批判した労映、京都市ほか)と協同して実行委員会を結成し、上映運動を推進した(*26)(写真14)。

京都市では祇園会館(1958年の開設以来しばしば「記録映画を見る会」の新しい例会会場として使用されていた)で1959年4月24日と25日、各日5回上映。さらに4月30日、古巣のヤサカ会館(2回上映)。そして5月8日から10日にかけて市内の大学においても学生組織との共催で上映された。そのような結果、当時900名ちょっとの会員数の「記録映画を見る会」が会員を通して動員した観客の人数は17,000人になったという(*27)。詳しい金額は明らかになっていないが、それまでの例会の赤字とは違いかなりの黒字を計上したという(*28)

この『戦艦ポチョムキン』の上映成功についてこれまでたびたび参照している浅井栄一や小野善雄はどのように捉えているのか? ところで事務局で裏方仕事もこなしていた浅井栄一が当時1959年頃の「記録映画を見る会」の実情を意外と正直に語っている(あるいは、愚痴の吐露というべき)文章がある。全ての会員の要求を満たすのは困難であり、実験映画などは評判が悪い、口伝えで会員が増えていっても例会に一度も参加しないものもいる、「毎月スゴイ作品ばかり」プログラムすることもままならず、フィルムを借りようにも手続きが大変であり、例会に間に合うようにフィルムが到着するかどうか心配で「オチオチ眠れない」、と(*29)。浅井にとって『戦艦ポチョムキン』はこのような状況を打破するものと見なされていたのであろう。前に8月の連続講座について見たような「新たな記録精神」を追求する中で新しい活動の展開が始まり、そこに『戦艦ポチョムキン』上映運動が入り込んできた。それが会の「活動のエネルギーをもっとも集中しやすい条件を与えてくれた」とし、「一つのピーク」と評価するのである。

他方小野は小野なりに『戦艦ポチョムキン』上映以前の時期の「記録映画を見る会」の活動を悲観的に見ていたようである。「商業主義に対する抵抗」や「映画芸術の発展」といった「勇ましく高邁なスローガンを掲げてみたところで実際我々の会に参加する仲間の数が少ないのではどうにもならない。」「商業主義はビクともしないばかりか却ってますますその商業性を強固にするばかりであろう」と述べている。「芸術性と大衆性」とが隔たり過ぎていたのである。このような状況において『戦艦ポチョムキン』の上映運動は、費用も莫大で多数の観客を動員しなくてはならない(先に言及した1959年3月例会パンフレットの裏面には「友人から友人え【ママ】口伝で上映運動を成功させよう!」とある(写真15)。この会の運動方法の原点である)。上映の成功は「記録映画を見る会」の会員数を「飛躍的に増大させ」、「積極的な態度をもった広範な観客組織」の育成に寄与するであろう。だから芸術性についても大衆性に関しても、「記録映画を見る会」の運動の「一つのピーク」(浅井と同じ言い回し)となったのである(*30)。今引用した小論の最後で小野は、「記録映画を見る会」発足時に参考にしたフランスのシネ・クラブが同じように上映禁止になっていた『戦艦ポチョムキン』のフランス初上映を行ったことに触れる。その運動がやがて自分たちで映画を制作するまでに発展していった経緯が小野に「理想的形態」といわせる。なぜなら映画とは「最も大衆的な芸術である」からである。日本での『戦艦ポチョムキン』上映運動が「記録映画を見る会」の発足意図を成長・発展させ、「映画の芸術性と大衆性の真の結び付きを深めていく力を生み出」すことになろうと小野は期待するのである。

小野の願いはいくつかの形で実現されていった。たとえば『戦艦ポチョムキン』上映をきっかけにそれまでどちらかというと「記録映画を見る会」が批判的であった労映(加藤秀俊の批判については先に見た)や、あるいは京都映画サークル協議会や京都市との連携を行っていくことがある。一例は1959年10月27日と28日に開催された「第二回名画観賞会 京都市民劇場 なつかしのサイレント映画」(祇園会館)であり、主催は「記録映画を見る会」、京都映画サークル協議会、京都市であった。この企画には「フィルム・ライブラリーのない空白を埋める仕事」とパンフレットに書かれているように、以前からの会の関心が再度表れてきている(*31)

やがて1959年から1960年という安保条約反対運動の激しくなった状況において、「記録映画を見る会」はその第4期における映画『西陣』の自主制作と全国的な上映展開へと歩みを進めていくのであった。


 

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山田和夫[観客運動としての『戦艦ポチョムキン』上映運動]、「記録映画」、第2巻第10号、1959年10月、P. 26-29
京都市における運動については、カタログ「戦艦ポチョムキン 上映記念」(『戦艦ポチョムキン』上映実行委員会、B5横版/24ページ、1959年4月)所収の三島源太郎報告文「『戦艦ポチョムキン』京都自主上映まで」が詳しい。三島も映画サークル運動の質的な発展が要求されているとし、「与えられたものをみる」から「創造的な集団批評へ、さらに映画芸術家や映画労働者と結びついて、芸術的良心にもとづいた映画をつくる」ことを訴えている。
浅井栄一(*7)と同じ文章。この数字が全体の動員数か、それとも他の組織ではなく「記録映画を見る会」が独自に集めたものか曖昧であるが、前者の全観客数と解釈しておきたい。
浅井は配給会社との駆け引き上、金額を公表しなかったという。この作品が当ると見たら、配給会社がその後の各地の上映に関して会社の取り分を多くするのではないかと危惧していたからだという(浅井栄一、森下宛私信、2008年6月18日)。
浅井【栄一】[後記]、「眼」、第3号、1959年6月、P. 8 
小野善雄[記録映画を見る会と戦艦ポチョムキン]、「眼」、第2号、1959年4月、P. 4
ジャン・エプスタンの『アッシャ-家の崩壊』(1928年)などが上映されたが、すべて個人的なコレクションであったという。既に第2章の「記録映画を見る会」の発端について述べたところでフィルム・ライブラリーへの関心について言及した。ここでもう少し追記しておきたい。浅井は同じ時期の文部省芸術祭の「映画の歴史を見る会 ドイツ映画史の回顧」パンフレット(1959年11月頃)の中で、「フィルム・ライブラリーの創設を望む」という短文を書いている。フランスのヌーヴェル・ヴァーグの若い監督たちがフィルム・ライブラリー収蔵の古典映画の研究を通して新しい映画技法を作り出したとし、そのような機会の得られない日本で映画関係者がそれを不思議に思わないことを批判する。そしてこの「映画の歴史を見る会」を回顧趣味の映画会に終わらせず、京都でのフィルム・ライブラリー創設の運動が起こるきっかけになってほしいと願っている。既に本稿で何回か名前の出てきた加藤秀俊は1961年頃に会の浅井栄一から日本映画のフィルム・ライブラリー創設の話を聞き、「映画産業がはじまったそもそもの時から、当然やってあるはずのことだから」非常に驚いたと記している(加藤秀俊[映画企業内部の敵 その1 無反応の哲学について]、「キネマ旬報」、1962年7月1日号、P. 57-58)。残念ながら本稿ではこれ以上敷衍できないが、不完全な映画収集と利用の状況を自分たちで解決しようとした意欲は再度書き留めておきたい。