3-5 第3期 『戦艦ポチョムキン』上映運動
「記録映画を見る会」の活動第3期の象徴的な運動について概観したい。映画史の大傑作といわれるこの作品『戦艦ポチョムキン』は戦前はおろか戦後も多くの障害(ほとんど人為的な)により、この国での公開が阻まれきた。既に1956年頃から輸入・上映の運動が起こっていて、「記録映画を見る会」1958年9月の例会で一度上映を企画したものの実現できなかった(機関誌「眼」創刊号で上映中止の経緯とその後の見通しが報告されている)。その後紆余曲折を経て、政府や大手映画配給会社の強固な壁をくぐり抜け「寄贈プリントによる非劇場自主公開」という形で、1959年2月21日(横浜)を皮切りに6月末までに全国上映を行い、22万人以上の観客を動員する結果となった(*25)。日本の映画史に残る出来事となったのである。「記録映画を見る会」も京都市での上映に関して他団体(京都映画サークル協議会やかって批判した労映、京都市ほか)と協同して実行委員会を結成し、上映運動を推進した(*26)(写真14)。
京都市では祇園会館(1958年の開設以来しばしば「記録映画を見る会」の新しい例会会場として使用されていた)で1959年4月24日と25日、各日5回上映。さらに4月30日、古巣のヤサカ会館(2回上映)。そして5月8日から10日にかけて市内の大学においても学生組織との共催で上映された。そのような結果、当時900名ちょっとの会員数の「記録映画を見る会」が会員を通して動員した観客の人数は17,000人になったという(*27)。詳しい金額は明らかになっていないが、それまでの例会の赤字とは違いかなりの黒字を計上したという(*28)。
この『戦艦ポチョムキン』の上映成功についてこれまでたびたび参照している浅井栄一や小野善雄はどのように捉えているのか? ところで事務局で裏方仕事もこなしていた浅井栄一が当時1959年頃の「記録映画を見る会」の実情を意外と正直に語っている(あるいは、愚痴の吐露というべき)文章がある。全ての会員の要求を満たすのは困難であり、実験映画などは評判が悪い、口伝えで会員が増えていっても例会に一度も参加しないものもいる、「毎月スゴイ作品ばかり」プログラムすることもままならず、フィルムを借りようにも手続きが大変であり、例会に間に合うようにフィルムが到着するかどうか心配で「オチオチ眠れない」、と(*29)。浅井にとって『戦艦ポチョムキン』はこのような状況を打破するものと見なされていたのであろう。前に8月の連続講座について見たような「新たな記録精神」を追求する中で新しい活動の展開が始まり、そこに『戦艦ポチョムキン』上映運動が入り込んできた。それが会の「活動のエネルギーをもっとも集中しやすい条件を与えてくれた」とし、「一つのピーク」と評価するのである。
他方小野は小野なりに『戦艦ポチョムキン』上映以前の時期の「記録映画を見る会」の活動を悲観的に見ていたようである。「商業主義に対する抵抗」や「映画芸術の発展」といった「勇ましく高邁なスローガンを掲げてみたところで実際我々の会に参加する仲間の数が少ないのではどうにもならない。」「商業主義はビクともしないばかりか却ってますますその商業性を強固にするばかりであろう」と述べている。「芸術性と大衆性」とが隔たり過ぎていたのである。このような状況において『戦艦ポチョムキン』の上映運動は、費用も莫大で多数の観客を動員しなくてはならない(先に言及した1959年3月例会パンフレットの裏面には「友人から友人え【ママ】口伝で上映運動を成功させよう!」とある(写真15)。この会の運動方法の原点である)。上映の成功は「記録映画を見る会」の会員数を「飛躍的に増大させ」、「積極的な態度をもった広範な観客組織」の育成に寄与するであろう。だから芸術性についても大衆性に関しても、「記録映画を見る会」の運動の「一つのピーク」(浅井と同じ言い回し)となったのである(*30)。今引用した小論の最後で小野は、「記録映画を見る会」発足時に参考にしたフランスのシネ・クラブが同じように上映禁止になっていた『戦艦ポチョムキン』のフランス初上映を行ったことに触れる。その運動がやがて自分たちで映画を制作するまでに発展していった経緯が小野に「理想的形態」といわせる。なぜなら映画とは「最も大衆的な芸術である」からである。日本での『戦艦ポチョムキン』上映運動が「記録映画を見る会」の発足意図を成長・発展させ、「映画の芸術性と大衆性の真の結び付きを深めていく力を生み出」すことになろうと小野は期待するのである。
小野の願いはいくつかの形で実現されていった。たとえば『戦艦ポチョムキン』上映をきっかけにそれまでどちらかというと「記録映画を見る会」が批判的であった労映(加藤秀俊の批判については先に見た)や、あるいは京都映画サークル協議会や京都市との連携を行っていくことがある。一例は1959年10月27日と28日に開催された「第二回名画観賞会 京都市民劇場 なつかしのサイレント映画」(祇園会館)であり、主催は「記録映画を見る会」、京都映画サークル協議会、京都市であった。この企画には「フィルム・ライブラリーのない空白を埋める仕事」とパンフレットに書かれているように、以前からの会の関心が再度表れてきている(*31)。
やがて1959年から1960年という安保条約反対運動の激しくなった状況において、「記録映画を見る会」はその第4期における映画『西陣』の自主制作と全国的な上映展開へと歩みを進めていくのであった。